ここのところ、iPhoneを手放そうかどうしようか、と考えている。
iPhoneは3GSから使っていて、数年前からは4Sをずっと使い続けていた。5・5Sが出た時に「別に4Sでいいか」と思ったし、6・プラスが出た今もあんまり欲しいと思っていない(試しに店頭で触ってみたけど、「デカい」という感想くらいだった)。
初めてiPhoneを手にした時は、モノ自体を触るのも楽しいし、「持っていること」自体がひとつのステータスみたいな感覚もあって、それを味わえることが心地よかった。でも今はそんな感覚も薄れていて、むしろ毎月の通信料が高さが気にかかるようになってきた。手放そうかと思っている理由としては、これがいちばん大きい。
そんなことを考え始めて、少し前から「外出中、iPhoneをいつ使ってるか」を気にして生活するようにしてみた。すると暇つぶしに近いSNSの閲覧だったり、乗り換え検索だったり、必ずしも不可欠でもなかったり、ガラケーでも対応できそうな用途がほとんどだった。あと僕はたまにストリーミングで音楽を聞いたりするので、これが使えないくらいだったらまぁいいかなという気もするな…と思っていた。
でもいまいち実感が湧かなかったので、おとといあたりから3G通信を切ってみてWi-Fiだけで使ってみている(電話は使えるけどネットには接続できない。Wi-Fiが繋がれば使える。あと携帯メールも使えない)。この数日は自宅で仕事したり、のんびりしたりで家にいることが多かったので、まったく不自由は感じなかった。
でも今日、銀行に行こうとした時にMapが使えなくて、困った。
その銀行を利用するのは初めてで、自宅でなんとなく場所を調べてから自転車で家を出た。でも、どうやら場所を勘違いしていたようで、思っていた場所に銀行が見当たらない。いつもならここでGoogleMapを開くところだけど、ネットに繋がっていないので使えない。はてどうしたものかと思ってしばらくぐるぐる走り回ってみるけど、やっぱり見つからない。コンビニのお姉さんに聞いても頼りない返事。
で、もうすぐ窓口が閉まる…というタイミングで道行くお兄さん(財布と携帯だけを持って歩いていたので、近くに住んでいる人だと思った)に聞いてみると、まったく違う方面だと教えてもらえた。色々あったけど、とりあえず窓口が開いてる時間ギリギリに手続きはできた。
…
「いきなり道に迷った時とか、ネットにつなげないと不便だなぁ」とか書きそうになったけど、よく考えてみた。これって「ネットが使えなかった【から】困った、だから外でもネット使おう」と考えそうになるけど、単に「銀行の場所が分からなくて困った」ということなんじゃないか。
銀行の場所が分からないということなら、今日みたいに人に聞けばたどり着けるし、もっと言えば事前に調べれば直行できたかもしれない。でも、そもそも今日の場合は「直行できなかった」こと自体は別に悪いことではなかったし、結果として手続きもできた。あれ、結果としては別に困ってないのか。
「外でネットが使えなくなると困る場面はいつだろう」と考えていたけど、これは常にネットにつなげる状況にあることが前提になっていて、個々の困りごとを見えにくくしていたり、原因を「ネットがない」ことに導いていくような感じがある。
ちなみに今日ソフトバンクショップに行ったら、てっきり更新月は来月と思っていたら「来年の11月」だとわかった。
うーん、どうしようかな。来月くらいには解約しようと思ってたのに。
とりあえず実験はつづく。
2014年10月7日火曜日
2014年10月3日金曜日
部屋の片付け
最近、時間があれば部屋を片付けている。
先週くらいにふと思い立って本棚を整理したら、途中から楽しくなってしまって。
昔読んでた漫画とか、旅先で衝動買いしてしまったハードカバーとか、
「これ、別にいらないかも」と思い始めて、持っている本の半分くらいは手放せた。
これまで必要と思っていたり、持っている状態が当たり前だったものが
「特に必要ないやん」ってわかっていくのがおもしろい。
あと手放す本の山を見てると、「この漫画は惰性で新刊を買ったな」とか
「これ買ったときは疲れてて、買うことでストレス解消してたな」
みたいなことも思い出す。
とはいえ当時は必要だったのかもしれないし、
今だからそう思うのかもしれないけど。
なんせ、「少なくとも今の自分にはなくても困らないもの」がわかっていくのが楽しい。
で、何日か前には引き出しの中にずっと入っていて「いつか使うだろう」と
思っていたボールペンとかマーカーを処分した。
今までは「書けるっちゃ書けるし、今使ってるやつがインク切れた時のために
置いておこう」みたいに思ってたけど、
「書くものを探すためにこの引き出しを開けたことがないし、それが何年も続いてる」
と気がついて、使いたい文具以外はだいたい捨てた。
自分が把握できて、使えるものの量には上限がある気がする。
上限を越えなければ「ある」ということは感じられているのに、
越えてしまうと、実際は「ある」のに「ない」ような感覚になるというか。
今日は中学校〜高校時代にレンタルした音楽を焼いたMDとCD-Rを片付けた。
「これきっと聞かないだろうなぁ」と思うものもあったけど、
まだ未練というか残しておきたい感じがあったのて、
こうやって無くても困らないものを手放していくと
部屋にスペースができてきた。
これまでパンパンだったクローゼットの中にも空きができて、
よく着るシャツを潰さずに掛けられるようになった。
よかった。
先週くらいにふと思い立って本棚を整理したら、途中から楽しくなってしまって。
昔読んでた漫画とか、旅先で衝動買いしてしまったハードカバーとか、
「これ、別にいらないかも」と思い始めて、持っている本の半分くらいは手放せた。
これまで必要と思っていたり、持っている状態が当たり前だったものが
「特に必要ないやん」ってわかっていくのがおもしろい。
あと手放す本の山を見てると、「この漫画は惰性で新刊を買ったな」とか
「これ買ったときは疲れてて、買うことでストレス解消してたな」
みたいなことも思い出す。
とはいえ当時は必要だったのかもしれないし、
今だからそう思うのかもしれないけど。
なんせ、「少なくとも今の自分にはなくても困らないもの」がわかっていくのが楽しい。
で、何日か前には引き出しの中にずっと入っていて「いつか使うだろう」と
思っていたボールペンとかマーカーを処分した。
今までは「書けるっちゃ書けるし、今使ってるやつがインク切れた時のために
置いておこう」みたいに思ってたけど、
「書くものを探すためにこの引き出しを開けたことがないし、それが何年も続いてる」
と気がついて、使いたい文具以外はだいたい捨てた。
自分が把握できて、使えるものの量には上限がある気がする。
上限を越えなければ「ある」ということは感じられているのに、
越えてしまうと、実際は「ある」のに「ない」ような感覚になるというか。
今日は中学校〜高校時代にレンタルした音楽を焼いたMDとCD-Rを片付けた。
「これきっと聞かないだろうなぁ」と思うものもあったけど、
まだ未練というか残しておきたい感じがあったのて、
PCにデータで取り込んで、MDも何枚か残しておいた。
こうやって無くても困らないものを手放していくと
部屋にスペースができてきた。
これまでパンパンだったクローゼットの中にも空きができて、
よく着るシャツを潰さずに掛けられるようになった。
よかった。
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