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2016年5月10日火曜日

近況

かれこれ近所のタリーズコーヒーに3時間くらいいる。大学のキャンパス内にあって、wi-fiが飛んでいるので来たのだが、インターネット欲が爆発してしまった。先週たまたま実家で第1話を観て面白かった『トットてれび』の続きとかを観て、phaさんとか大原扁理さんのブログを読みあさっていた。ブログに中島みゆきの話が出てきて聴きたくなって、「時代」をYouTubeでリピートしている。

つい最近まで自宅のネットは超低速の格安simを使っていて、動画が観たくなって最近simの契約コースを変えた。けれど接続上限が思った以上に気にかかるということに気づいてしまった。ネットくらいはもう少し何も考えずに使えるようにしてもいいかもしれない…。

4月からは引っ越すし仕事の仕方も少し変わるので、考え事をしたりブログを書いたりできるといいな…みたいな想像が膨らんでいたんだけれど、いざ引っ越してみると目の前の生活をまわすので一杯だ。一杯というか、生活をまわすこと自体が案外おもしろくて、自分の着た分の服を手洗いして朝からベランダに干したり、人から教えてもらったレシピの料理を試してみたり、近所の100円ショップでS字フックを買いまくって生活環境を整えたりしている。

いま住んでいるところは「とにかく安いところ」と考えてシャワーが共用の物件を選んだ。部屋に風呂がないことに関しては、一時期友人と共同で借りている風呂なしの和室で3ヶ月暮らした(銭湯に通った)のでそんなに抵抗はなかった。実際住み始めてからも不便は感じていなかったんだけれど、ある朝シャワーを浴びようと思ったらちょうど掃除中だった管理人さんにとても迷惑そうな顔をされて、シャワー浴びようと思うたびに「管理人さん居たら面倒だな」という考えがよぎるようになってしまった。引っ越す前は「風呂場を所有する必要はないのでは」みたいなことを言ってたけど、早くもネットで風呂付き物件情報を漁ってみたりしている…。

「あと⚪︎⚪︎円出せば風呂付き物件に住める」というところから始まって、「ああ、あと⚪︎⚪︎円出せばわりと新しめの物件があるのか」みたいなことを考え始める。こうなるとけっこう際限がなくて、耐震基準が気になって「築何年か」を見始めたりして、気づいたらずっとSUMOのページを更新し続けたりしていてとても疲れる。

あとは「今の収入ならこれくらいの場所に住んでもいいのでは」みたいな考えもよぎり始めて、こうなるともう住む場所を選ぶという感じではなくなってきて、これのスケールが大きくなるとタワーマンションを買いたいとかそういう感じになるんだろうか、とかそういうことを考える。

とりあえずパソコンの電池が残り4パーセントなので帰ります。

2016年4月2日土曜日

引っ越しました。


京都市内で、出町柳から歩いて10分くらいのところです。

物はあまりたくさん持って来ないようにしたんですが、いざ住み始めてみるとあれも必要これも必要みたいな気持ちになって毎日買い物していて、ちょっと疲れていました。

一人で部屋にいるとなんだか何もできない感じになってきて、さっきリュックひとつ背負って川に出てきたんですが、やっぱり川はいいです。

風が吹いていて、人の声が聞こえて、信号の音がして、車が走っていて、
自分からなにもしなくても景色が変わっていって

ブログも、ちょっと引っ越そうかなと思ったりしています。

まだ具体的には何も見えていませんが、そんなことを思っています。

2016年1月22日金曜日

嫌な夢を見た。

嫌な夢というのを久々に見た。

ある状況でぼくがひとつミスをして、それについてある人に糾弾されるという場面だ。最初は一対一で追及されて、そのあと周りの人に対して見せしめにされたような場面に移る。

ミスの内容とか場面設定自体は現実味がないのだけれど、登場した「ある人」は実在する人で、この嫌な感じは実際にその人との間で過去に経験した感じと同じだ。
実際は「ある人」は見せしめにするつもりなどなかったのかもしれない。けれどその時の
「嫌な感じ」は実際にあって、昨晩もまた体験してしまった。
だから何なのか、ということは言いにくいのだけれど、そういう夢を見た。

2016年1月17日日曜日

契機が突然やってくる

最近メンタルの調子があまりよくなくて、何もしたくなくなったり動きたくなくなったりすることが多い。事前に申し込んで参加する予定だった「読む・書く・残す 探求ゼミ」も、昨日は欠席してしまった。

そんな中で今日、吉本隆明『共同幻想論』ゼミに行ったのだけれど、初対面の方がいて、なんと東京から来たという。もうなんだかそのことを聞いただけでぱーっと視界が開けたように面白くなって、ああ、こういうことが起こるんだなあと嬉しい気持ちになる。

年をまたいだタイミングくらいから明らかに自分の何かの位相が変わってしまった感じがしていて、それは何かと言われてもうまく説明がつかないのだけれど、なんとなくそういう気がしている。住む場所を探していたら疲れ果ててしまったり、友人と一緒にやろうと決めた企画のことがぜんぜん考えられなかったりして、なんだか身動きが取れない感じになっていた。

今日は少しだけどこかに着地できたような気がしていて、企画のことも考えられそうだ。こういう契機はきっと自分でコントロールできる類のものではないのだろう。やってくればやってきたとわかるけれど、やってくるまではやってくるかどうかはわからない。


2015年12月30日水曜日

毎回同じ場所にやってくる

何度か書いたブログの下書きを消しては書き、消しては書きしている。このあと昼過ぎに大学の友人と会う予定で、それまでになにか書き留めておきたいという気分になっているのだと思う。今いる公園はとても気持ちがいいとか、最近家とはなにかを考えているとか、この間終わった吉本隆明を読むゼミのこととか、浮かびはするけれど文章にならない。文章になってもこういうことが書きたかったのだろうかと思ってやはり消してしまう。

ほうっておくとすぐに何者かになろうとしてしまう。隣の人と自分とを見比べて、ああなんて自分はできないんだとか、こうなるにはどうしたらいいんだろうとか、そういうことを考え始める。昔自分ができたことを思い返して、きっとあれが出来たのはああいう条件があったからだとか、じゃあ今度またできるようにするためにはこうしたらいいんだろうとか、そういうことをすぐに考え始める。

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読むゼミがこの間終わった。これを読んでいる期間はぼくはさっき書いたようなことの渦中にいた。渦中にいたということがわかって今それについて書いている。

ああまただ、と思う。その都度目の前に起こることに対して自分がどういう反応をしているかということでしか何かができない。本当ならもっとこうなのに、とかこうなればもっといいとか、そういうことに翻弄される動きの中にはなにもない。すぐにそのことを忘れて、その中に入っていこうとする。こういうことが自覚できたときはとても視界がクリアになる感覚と裏返しの孤独を感じる。

けれどこの孤独は妙なあかるさを伴う孤独だ。この感じがあって初めて、他人と一緒に居るとか何かをするということができるようになる気がする。またここか、というこの感じを得るときは毎回同じ場所にいるのだけれどその都度初めて来たような新鮮さと、そしてもう二度と来ないのではないかと思うような確かさがある。

うんざりしながら、気持ちがいい。

2015年12月21日月曜日

近況

・ブログのタイトルをどうしようかと考えている。ずっと本名を冠して書いてきたんだけれど最近「これは本名では書きづらいな…」と思うこともあってちょっと窮屈だ。このブログを書き始めた頃、本名は明かさず始めようかとも思ったけど「何を恐れている、本名で勝負してなんぼだ」みたいに思っていた。最近は名前は看板みたいなもので、看板を架け替えることで書こうと思うことが書けるなら別にいいのではという気もしてきている。けれど適当なタイトルとかペンネーム的なものも思いつかない。

・以前は純粋にその行為自体が面白いと思っていて、最近それが「しないといけないこと」に見えてきていてちょっとしんどい。具体的にはゼミの本を読むとか、ブログを書くこととか。「あーしないといけないと思ってるな、別にできなくてもいいから気楽にやろう」とただ思えたらいいんだけど「しないといけないと思ってる状態はよくない」という風に思っているふしがある。「今も純粋におもしろいと思っていると思いたい」みたいに固執する感じがあるのだと思う。「自分はこれをやっていたらもう大丈夫だ」と思えた瞬間みたいなものが過去にあって、それにすがりたいんだけれどそうはいかない、ということを認めたくないのだろう。

・やっぱり東山の和室は立地がよい。徒歩5分かからずに大きめの図書館と公園に行けるし、10分くらいで鴨川にも銭湯にも24時間営業のスーパーにも行ける。イオンにも徒歩5分で行けて、こっちは夜9時に閉まるけど売ってる商品が安くて重宝する。改修していた京都会館が1月には「ロームシアター京都」としてすぐ近くにオープンする予定で、ここにはスタバと蔦屋書店が入る。うまくいけば図書館になかなか入らない新しい本とかもここで読めるし、コンビニも入るみたいで、なんだか都合が良すぎて笑える。都市的なインフラがこれでもかというくらい整っている。

・人に期待されるということは疲れる。自分で言うのもどうかと思うけれど、ぼくは子どもの頃から人の期待にうまく応えることで自分の立ち位置を保ってきた部分があって、今でもわりとうまいこと人の期待に応えることはしていると思う。けれど期待をかけられすぎたり無理に応えようとし始めたりすると一気にバランスがおかしくなることもわかっていて、そうならないように注意を払うのに疲れる。期待に応えた瞬間というのは気持ちがよかったりもするので、期待に応えることと応えないことの両方で自分の立ち位置を保つみたいなとても微妙な線のことをやっているような気がしている。

・ここまで書いたようなことは今日、銭湯に入る直前にむくむくと書きたくなっていて「これお風呂入ったら書く気がどっか行きそうだな…」と思っていたら案の定そうなった。夕食をとってだらだらとネットを見ながらどうしようもない気分になってきて、味噌汁を飲んで一息ついたら書き始めた。こうやって書くと一旦立ち止まるので、またなんとかやれそうな気がしてくる。

2015年12月12日土曜日

最近余裕がない(2)

前の記事の続き。

ギアが上がり続けているときはなんというかあまり記憶がない。時間が過ぎるのがすごく早く感じて、「もう2週間も経ったのか」とか思ったりする。けれどもさっき書いた「寄る辺なさ」とか「根拠の不確かさ」みたいなものは感じ取る余地がなくて、そういう場所が別のもので塗り込められていて、そういう不確かなものが見えない。

不確かなものが見えないというのはあながち悪いことばかりでもなくて、不確かさからくる不安みたいなものは感じなくて済むし、外からの刺激もあって面白かったりする。だから「こういうのもありか」とか思うのだと思う。

でもやっぱり本当におもしろいことというのは、そういうどうしようもない寄る辺なさとか不確かさをひりひりと感じながらそれでも何かしている時なんだろうなと考えたりする。

「やりたいこととかあるんですか」と聞かれると最近いつも困っていて、結婚しますとか起業しますとかこういう業種の仕事をしたいんですとか、そういうことを言える気が全然しないんだけれど、「寄る辺なさに浸ろうと思います」なら言える気がする。でも言ってもおそらくあまり理解されないんだろうなと思う。

寄る辺がないので、その状態で何が起こるとか何をするとかそういうことが言えない。けれど寄る辺がないことで起こる何かみたいなのはほぼ確実といっていいほどあって、それはちゃんと寄る辺がなくならないと起こらないような気がしている。

2015年12月11日金曜日

最近余裕がない(1)

最近余裕がない。

例えば朝がつらい。寝ても全然寝た感じがしなくて、アラームの音で目が覚めてもできるだけ横になっていたくて家を出る20分前になんとか身体を起こして支度したりしている。

あとは帰ってくるのが遅い。前にやっていた仕事と比べれば早いほうなんだけれど、今のぼくの感じからすると遅い。前はこの時間からもうひと仕事やっていたとかちょっと考えられない。

外食も多くなった。少し前はまだちょっと余裕があって、「おっ、今外食したくなってるということはこれによって何かを解消しようとしてるな」とか俯瞰して自分を見れてた感じがするんだけれど、最近は「もうだめだー」みたいな感じでふらふらと店に入ったりしてしまう。

「余裕がない」というタイトルで何か書けるかもという気になっていて、「余裕がなくてつらい」ということももちろんあるんだけれど、その反面「つらさ」とはまた違う感じも混じっているぞということに薄々と気がつき始めている。

それは何というか、身体は疲れていてどう考えても移動中のバスに乗っている自分の目は死んでいたりするんだけれども、そういう状態がある一定期間続くとその状態が普通になっていて、それでもなんとかなっているということが普通になってくる。

これはさっき書いた外食のあたりに顕著に表れていて、「外食によって何かを補填しようとしている」ということを自覚的に面白がれている状態と、そうでない状態というのがずいぶん違う気がする。前者の感じだとあくまでベースは自分のギアの段階にあって、必要に応じてギアを上げて走って、必要がなければまた落とせている感じだ。けれど後者の状態だとギアが上がった状態でずっと走り続けていて、そのまま食事したり寝たり起きたり仕事をしたりしている。エンジンを切ったつもりでも、そのままの勢いですーっと移動し続けている。

この後者の状態はある一定期間を越えると妙に身体に定着する感じがあって、例えば肩の重い感じがずーんと常にあるのが当たり前な気がしてきたりする。こうなると「しんどいから休みたい」とかそういうのともちょっと違ってきていて「まあこういうのもありか」という気分に不思議となってくる。

そうでない状態、ギアを自分で上げたり落としたりできているときはもうちょっと違う感じで、得体の知れない寄る辺なさとか根拠の不確かさみたいなものがふと押し寄せてどうしようもなく不安になったりしてそこら辺を徘徊したりしている。こういう時はもうどうしていいかわからなかったりするし、はたから見るとちょっと危ない感じがするんだろうけれど何か問題があるという感じはしなくて、自分の中の時間がただ流れているという感じがする。


2015年11月16日月曜日

独り笑う人

やっぱりここじゃなかなった、ということを確かめるためにやってるんだ

と独り河原でつぶやく。
へへへへ、と独り不気味に笑う。

「今度こそ、ここには何かあるんじゃないか」と思いながらするというのとは決定的に違っているということがわかっただけでもじゅうぶんだ。

ようやくここにたどり着く。

「東山の和室」を出たときは漫然と、とりあえず散歩に出た。
決めないといけないことがあって、それについて考えようとしている自分に気がついて、けれど考えようとしている時点で何か違う風になりそうだということに気がついている。

この視点ではどうだろう、あれについてはどうだろう、という風にチェックリストを埋める感じに思考が働き出すと、その先には何もないどころか何かおかしなことになるということに気がついているので、そういう思考になりかけるのを自覚しながら、とりあえずコンビニに寄って用を足す。

発泡酒を買って河原に出て、飲みながら煙草を吸う。七輪の火を眺めているみたいだ、と思いながら対岸の店の灯りを眺めながら、チェックリストはだんだんとその影を潜めて酒と煙草の効果で意識がぼんやりと霞んでいく。

するとなんとなく浮かんでくる何かがあって、それは友人から勧められてついさっき観た『おもひでぽろぽろ』のシーンだったり、職場で過ごしている会議の場面だったりする。
流れるままに頭と身体を任せていると、冒頭に書いたような言葉が口をついて出てきていて、ここでぼくは初めて独り言を言う。

独り言として勝手に出てきたという時点でもうぼくにとっては説得力があって、根拠とか理屈とかを越えてもう事実として存在してしまったのでどうしようもない。その事実を目の前にして、へへへと笑うしかない。

ここまでくると、独り言として出てきたことについてもう少し探求したくなってコンビニに戻ってチューハイを買ってもう一度河原に出る。2ラウンド目のスタートだ。

ぼんやりした視界と妙に冴えた感覚、ここだけ押さえていられるならあとはどうとでもなるという感覚が同居しているのを感じながら、独り探求をすすめる。

ここでやはり「もうじゅうぶんだ」というところにたどり着いて、立ち上がる。ふらふらと歩きながら自販機の脇のゴミ箱に缶を捨てて、和室に向かって歩く。端から見たら危ない人なんだろうと思いながら、身体が冷え切っていることに気がついて、帰ってコーンスープを飲んでこのことを書いてしまえばもう完璧だという気分になっている。

帰ってきてこうして文章に残しているということによって、ぼくは今存在している。

2015年10月28日水曜日

ぼくにとって書くことや話すこと

ぼくにとって書くことや話すことというのは、ぼくに見えている現実を取り出して「今こうである」ということを確かめる行為だ。

ある出来事に直面する。それは何か回答や見解が求められることであったり、状況からみて自分が何かいうべきではないか、と思えるようなことであったりして、その都度ぼくは言葉や行動によって反応する。

けれどこれは注意深くやらないと自分の見えているものとずれたことを言っていたり、思ってもいないのに余計な気を利かせて話していたりする場合があって、そういったずれにその場で気がつくこともあればまるでずれなどなかったかのように過ごしてしまうことさえある。

こう捉えたほうがいい、こういう考え方もできるはずだ、とか、そういう特定の方向づけになるべく影響されないかたちで「見えている現実」を取り出そうとすると、ぼくにとってはそれは書くとか話すとかいったことによってようやくできるという感じがしている。

人の書いた文章を読んで画面の前で唸り、しょうもない文が書けないぞという気分になって一向に何かを書ける気がしなかったのだけれど、こうして書いている。

何かを書ける状況というのは意図して作ることができる類のものなのかどうかは分からない。もう何も書けないんじゃないかという気分になっていたかと思えば、ぱっと視界が開けたように書こうという気分がやってくることがあって、その予兆みたいなものはなく、銭湯の湯船から磨りガラスの向こうに脱衣所の人影をぼんやり眺めている時だったり、夜の路地をぶらぶらと歩いていて交差点に差し掛かった時だったりする。

これは何か杭を打つようなもので、書くことによって自分はこういうものを見ているという現実を確かめて打ち付けているような気がしている。

自分にとって微妙にずれた現実の固定化をすすめるような話し方や書き方ばかりしていると、そちらの状況が現実としてより力を持ってくるのをひしひしと感じる。そうなると特に必要もない時にそちらの現実が背後からぬっと顔を出して、ぼくの頭や手や足をとって動かそうとする。

そういう気配を感じながら書く。

2015年10月27日火曜日

10月27日(月)

1日の仕事を終えて、バス停に並ぶ。前に並んでいる3人の後ろにつけて顔を上げると、いつも出勤時と退勤時に必ず目に入る屋外時計と街灯の背景に赤みがかった空が見える。地面から高く伸びる柱の先端に乗っかっている街灯の電灯部分は格子状の箱のようなもので覆われていて、灯りはまだついていない代わりに格子の間から空の赤が顔をのぞかせていて、格子の一本一本の輪郭がくっきりと描き出されている。

ああ、と思って以前もまったく同じような風景を見た、ということに気がつく。それはたかだか数ヶ月前で、その時の時間感覚を思い出す。それはまだ1日の終わりという感じがしなくて、まだここから何かをする余地がある、というかホームグラウンドに帰ってきてこれから1日が始まるようなそういう感覚だ。ここからどこへでも行けるし何でもできるという感覚でバスに乗り、実際には家に帰るだけなのだけれどとにかくそういう心持ちで移動していたということを思い出した。

2015年10月24日土曜日

無題

1日の出来事が、わーっと頭に浮かんできて、負荷がかかる。

負荷をなんとか減らそうと思ってイヤホンを取り出して、騒がしい曲をかけてみる。何年か前からやっていたやり方で、今回もそうする。けれど耳に音楽が響いているだけで状況は変わらず、わーっと頭に浮かんでくる。ということに気がついて音楽に意識が戻って曲が流れていることに気がつく。

銭湯の湯船に浸かって目を閉じて口を空けていると、やっぱりわーっと頭に浮かんでくる。もうどうしようもなく、そのまま口を空けている。じりじり、じりじり、とハードディスクの読み込み音がひとりでにしているような、あるいはわーっと浮かんでくる1日の映像に追いつこうとするように、じりじり、じりじり、と頭に音を鳴らす。

浮かんでくるのは一瞬から数秒の映像で、その当時、つまり今日ぼくが見た人の顔の角度やその表情、部屋の広さが再現されたかと思うと別の映像に切り替わる。大抵そこに音声はなく、そのときの心持ちというか感覚のようなものが思い起こされるかどうかという瞬間に、その場面で自分が言われた言葉を思い起こそうとする。と同時に無理に思い起こさなくてもいいという気がして、言葉の断片に触り、だいたいこういう言葉だったという輪郭が浮かんでまた別の場面に切り替わる。

そういうことを繰り返しているとだんだん湯船に浸かるのに疲れてきてお風呂からあがる。

音楽をかけて負荷を減らそうとしても逆効果で、別のもので押さえつけようとした分圧力を伴って映像が噴き出してきているのではないか、という考えが浮かぶ。

ということを書くことで、何かを保とうとしている。

2015年10月18日日曜日

以前ふつうにやっていたこと

『はてしない物語』に登場するバスチアンは、本の中の世界「ファンタージエン」で自分の望みが叶えられるたびに、記憶を失っていく。最終的に彼は自分の名前を忘れる。

* * *

「以前はふつうにやっていたこと」というのがある。これは、「今はふつうにできなくなっている」ということを自覚しているからできる表現で、これが自覚化されていない状態では「ふつうにやっていたこと」を対象として取り出すことができない。

不意に何かのきっかけで「今はふつうにできなくなっている」ということを自覚した瞬間に、その瞬間の直前までの状態が「今はふつうにできなくなっている」ということを自覚していない状態として区切られる。

ここでぼくが「以前はふつうにやっていたこと」という言葉で指しているものは、特定の名称を使うことによって指し示したり、簡潔な言葉で解説するということが難しい。

借りているアパートの一室から同じアパートの別室に引っ越すのが妙に楽しかったり、人に会ったら10年ほど借りたままになっていたCDを返されて懐かしい気持ちになったり、そういうなんの脈絡もない出来事と自分の反応の積み重なりが今日はただ目の前にある。

計画を立てる、見通しを持つ、目標を設定する、根拠を示す、意義を説明する、そういうったものを持ち出すと本来は脈絡もなくただそこにある物事が整然と並べられていく感じがあって、そういう働きと「以前はふつうにやっていたこと」とが関わりがある気がして、その関わりについて書きたいけれどトイレに行きたくなってきたのでここで書くことをやめる。

2015年10月16日金曜日

半年前の彼

ずっとブログを書いていないなあ、書くペースが落ちたなあと思っていて、散歩に出て何か書きたくなって、何を書くとも定まらないままとりあえずパソコンを開く。

デスクトップにはいくつかのテキストファイルが無造作に置かれていて、その中のひとつを開くと、ちょうど半年くらいまえに自分が書いた文章が記されている。

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駅に向かうのが足早になる。
いつも駅までかかるのと同じ時間見積もって家を出ているはずなのに、
心なしか早足になっている。
カツカツカツカツ歩いている。

ホームで「ただ待つ」というのが耐えられない。
あと5分で来る電車に対して、早く来ないかといらいらする。

電車内で気を張る。
「降り損ねてはいけない」という考えが常にひっかかっている。
ぼーっとすることに没頭できない。
何かのスイッチがオフになっていて、ある一定以上は考えが進まない。

込んでいる電車内では、もっと気を張る。
目を閉じ、こうべを垂れて肩が内側に向いて、胸のあたりが狭くなる。
いくつものスイッチをオフにして、
じっ と縮こまって、人が、時が過ぎるのを待つ。

声を張る。テンポが上がる。
いつもの調子でとぼとぼと話していると
届かない感じがする。

帰ると、顔・肩・顎あたりがこわばっているのを感じる。
口角を上げようとしたときに使う筋肉が緊張していたような感じがする。

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当時ブログに書こうとして、公開しなかった文章だ。

書かれている文章を読んでいると、これを書いた当時のぼくの姿が立ち現れて、彼が当時の状況を自覚的に切り取って文章にしている様子が見える。文章を読むと今のぼくが見過ごしている、あるいは慣れたと言えるような状態を当時のぼくは意識的に切り取っているところから、彼と今のぼくとはかなり距離があるのだということを、自分が書いた文章によって思い知らされている。

2015年9月22日火曜日

文章を「適当に書く」ということができない。

文章を「適当に書く」ということができない。

いまとある文章を書かないといけなくて、それに取り掛かっているのだけれど、思ったよりも時間がかかって疲れ始めている。

今現在のぼくとしては特に語るべきことがなくて、けれど立場上何かを語る必要があって、そうした状況の中にもう一度自分を投影してみると、「何かを語る必要がある」と「かろうじてこれだけは言えるかもしれない」という2つの要素がぎりぎり交差する箇所が少しだけ見えてくる感じがあって、かろうじてそれを掴み取って文字に書き落としていく。書き残した文章を見返すとそのぎりぎり交差する箇所からわずかにずれていることが分かって、もう少し右、いやもうちょっと左だ、という具合に微修正を重ねていく。もうあとは体力と締め切りの問題で、それこそもう、今現在のぼくとしてはこうとしか書きようがないという部分で、それは微修正する体力的・時間的・技術的な限界によって書くことが終了する。

自分の書いたものが何も語っていない、一見何かを語っているようでぼくとしては何も語っていないことがありありと分かるような一文があって、その空虚さ、意味は通じるけれど価値のまったくないその一文を見るにつけ、ますます「適当に書く」ということができないと痛感する。

たとえば仕事の報告書なんかはまったく別で、「何を語る必要があるか」に焦点を合わせてそれに応じた情報を集めて的確に配置することに注力すれば出来上がる。自分だけで完成にたどり着くケースというのはほとんどないので、いっしょに仕事をしている人との共同作業の中で焦点のズレを修正したり、足りない情報を補い合って文章が完成する。

今回の場合ややこしいのは、過去の自分としては大いに語ることのあった場所についての文章で、今の自分とその過去の自分とは明らかに距離があって、けれど「距離がある」とだけ書くことでは完結しないと自分が感じているという点にある。もっとほかに「語るべきこと」があるような気がしていて、同時に「何かを言いたい」ような気もしている、という小さな波がざわめいているのを感じていて、それをうまくすくい取って言葉に残せられれば書けるのだろうし、すくい取れなければ書けない。

という今の状況が書けたということには、とても満足している。

2015年7月23日木曜日

「これさえあれば大丈夫」と「あれがないとだめ」

誰かにおもねるとか、気に入られようとするとか
何かしらの目標達成をめざして立とうとするとか、
誰かのために、という言葉に依って行動するとか、
そういうことをなるべくしないで、留まって立っていられるといい

あれがないと自分はだめだ、という感じだと、それはむずかしくて

これさえあれば自分は大丈夫だ、というのがわかっていれば、わりあい、できる。

あれがないと自分はだめだ、というのは、なんというか、広がりに際限がなくて
あれもないと、これもないと、そう言われてみればあれも、もっとほしい
という感じで ずっと 延々と続いて広がる感じがする。

新しい音楽を手に入れたくなるとか 
そこに何かあるんではないかと思ってイベントに行くとか
あれもやります これもやりますとか、
そういう感覚や動きと近い場所にある気がする。

これさえあれば自分は大丈夫だ というのはまた違っていて
それは一見、あれがないとだめだ というのに姿が似ていて
けれどこっちは 延々と広がる感じというのはなくて、むしろ
狭まったり 孤独な感じがしたり でも静かにあかるく、はっきりしている
そういう感じだ。

やれなさとか、不安とか、そういうものが目の前にぼんやりあって
そこで あれがないとだめだ、の方に向かっていきそうになるのをちょっと待って
じっと待っていたら これがあれば大丈夫 がみえてくるという感じがする。

そこでちょっと待っているうちに
「よろしいですか、フージーさん」と、『モモ』に出てくる灰色の男が話しかけてきて
そんな風に過ごしている時間は無駄だ、時間を倹約しなさい、という。

立ち方を覚えていれば、モモのように 無縁の輩として居られる。

2015年7月18日土曜日

「現実」はどのように構成されるか

なんというか、いっこうに寝られる気配がなくてブログを書く。

最近、現実というものはどのように構成されるかということに関心があって

自分のどうしようもない居所をはっきりと、切実に外に出してみて
そのうえで現実というのは構成されてくるという気がしている。

それを妨げたり、しにくくなる要素というのは世の中にあふれていて

たとえば世の中の動きが気にかかっていて、
何か言いたい、言わねばという気分がふつふつとわいていて、
わかりやすい主張に流れてしまいたくなる感じがある。

でも何かを言い切るにはちょっと違うという感じもあって
言い切れるのであればいいのだけれども、
もし言い切れないとすれば、
たとえその言い切れなさの正体が何なのかがわからなくても、
その中でそこに留まれるかどうかというか
そこで現実の構成のされ方が変わってくるように思う。

自分がほんとうに直面しているものから目を逸らすとか、
逸らすとまで言わないにしても、
自分から離れたものに対して、自分が直面しているものを投影して
あたかも自分が直面しているものがなんとかなったかのように思えてしまう
そんな誘惑というか 解決策めいたものに飛びつく

そういうことをしないでいられるかどうか
ということではないか。

もちろん、自分から離れたことと考えるのはまちがっている、
自分にも関係の深いことだよ、という主張は正しいように思えるし
そうだなという気がする。

けれどそう考えたとして、では自分からなにか発信をするとか
動きを起こすというのは一段違う層にあるという気がしていて
自分にとってそこに段差があるとすれば、
その一段低いところに留まらざるを得ないというか
そこを一段飛ばしでジャンプしてしまうことで
スキップされてしまうなにか、
自分がほんとうに直面しているものが
視界に入らなくなってしまうようなことが起こるのではないか。

そんなことを考えている。

2015年6月25日木曜日

渦が落ち着くまで待ちたい

とある幾つかのことを決めないといけなくて、
それを後回しにしていたことを思い出す。

とりあえずじっと座る。

別にいいんじゃない、こっちで。という感じがする。
でも「そうしよう」とならなくて、立ち止まる。
これは何だろう、と手に取ってみる。
しばらく眺めていると、ああそうかこういう感じかとわかる。

なんとなく整った気がして、動く。

 * * *

別になんということもない些細なことについて、
こんな風に考えてものごとを決めている時間がある。

コップの中をわーっと掻き混ぜて、渦が静まるのを待っていると
底面に書かれた文字が見える、みたいな。
自分が何もしないことで、なんとか見えるものがあるというか。

でも日常生活ではこういうことはあまりできなくて、
渦が静まっていないのにコップの底の文字を尋ねられて
「Aだと思います(たぶん)」みたいな見切り発車をしたり、
他の人の渦に巻き込まれてよけいに撹拌が進んで
文字が見える前に疲れ果ててしまったりする。

精神的・体力的に疲れていると、渦が落ち着くのを待てない。

下手をすると朝起きてもまだ渦は残ったままで、
こうなるともう機械的に排水してしまうとか、
コップの代わりに別の物を置いて、
一旦コップを見ないようにして気を紛らわせるとか、
そういうことをせざるを得なくなってくる。

これはこれで悪くはないけど、長続きする感じがしない。

 * * *

排水のための機械とか、コップの代わりに見るものとか、
そういうものについ頼ってしまうけどそれはそれで仕方ないかなと思う。

でもやっぱり渦が落ち着くまで待ちたい。

2015年6月20日土曜日

「困る」人

「僕」は、どこかそわそわした気分でいる。
じっとして居られなくなり、とりあえず歩き始める。

ふと横に目をやると、誰かがいる。
なんとなく気になって、歩いていき、話しかける。

その誰かはこう言う。
ああ、そうですか、そうなんですね、わかります。
こういうことでお困りなんですね。

「僕」は答える。
ああそうか、そうです、そうなんです。
ぼくはまさにそれで困っていた気がします。

誰かは言う。
ええ。さぞお困りだったでしょう。
こういう風に考えるといいですよ。
あなたにはこういうことが必要で、こうやってこうなるのがいいですよ。

ああ、ありがとうございます。
そうか、これをやればいいんだ。あれをやればこうなれるんだ。
少し元気になって、また歩く。

しばらくすると、どこか調子がおかしくなってくる。
あれ、こうしてるはずなのに。
まだ足りないのかなあ、次はこうしてみたらいいのかなあ。
こうすればこうなれるはずなのになあ。

少し引き返して、さっきの誰かをたずねる。
あのう、こういう風にしてみているんですけど、
なかなかこうならいんです。

すると誰かは言う。
そうですか、そうですか。ええ。
きっとまだああいうことが足りないんですよ。
わたしはこんな風にやってみましたよ。
そうだ、あっちのあの人はああいう風にやっているそうですよ。
ええ、きっとああすればこんな風になると思いますよ。

ううん、そうか。言われてみれば、そんな気がする。
そうだよな。うん、そのはずだ。そうしよう。
また歩く。

痛みを感じて立ち止まる。
かかとに、靴ずれができている。

2015年6月3日水曜日

余計なことをせずにノイズを除去できたら動ける。


大谷さんのブログ(【137】その人の行動原理。)を読んだ。
その中にこんな一文があった。
僕が行動原理というふうに言っているものは、何かに邪魔されない限りは基本的にその人はそのように行動するというもの。
何かに邪魔されない限りは。本当にその通りだなと思う。
なんだかブログに返答してもらったみたいで嬉しくなって、
ぼくもこの「行動原理」についてちょっと書いてみたい。

以前は、人は自分の意思によって行動するものと思っていた。
もっとこうなりたい。もっとこうあるべきだ。
そういう、自分の外にあるものに向かうエネルギーによって人は動くと思っていた。
もちろんそういう原理は実際にあって、
世の中の大抵のものはこの原理で動いていると思う。

けれど最近気がついたことがあって、
ぼくの場合はこの「もっとこうなりたい」とか「もっとこうあるべきだ」
という類いのものが、自分の行動原理を邪魔している。

学生時代、「こうすべき」に囚われずに「こうしたい」を基準に動きたい、
みたいなことを考えていた。
けれど、今ではこの考え方もしっくりこない。
そもそも「こうしたい」というのがあるかどうかすら怪しい。

「今のままで良いのだろうか」みたいに思うことも、前より少ない。
「良いかどうか」もよく分からない。

あるとすれば「今どうであるか」くらいのもので、そこをちゃんと見るしかない。
「今どうであるか」が見えれば、後はもう邪魔するものがなくなるのを待つしかない。

積極的にできることがあるとすれば
「こうあるべき」「こうありたい」というノイズを極力除去することくらいだ。
そういう方向に自分を促すものから距離を取るくらいのことしかできない。

余計なことをしなくていい。
ちゃんとそこに留まって、「こうあるべき」「こうありたい」というものが
すーっと引いた時に行動できるという気がする。