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2015年4月26日日曜日

「時間があると余計なことを考えてしまう」について。

考えることは疲れるけど楽しい。

「時間があると余計なことを考えてしまう」という言い回しがある。

「時間があると」と仮定しているので、
これを言う人は時間がない状態、おそらく忙しいのだろう。
日々何かに追われていて余裕がないイメージが浮かぶ。

「余計なこと」というくらいなので、
それについて考える必要性は高くないのだろう。
考えないからといって何か問題が起こるわけでもなく、なんとかなっている。

「考えてしまう」ということは、
自分の意思とは無関係に「考え」が起こっているのだろう。
考えなくてもいいはずなのに、できれば見ないでおきたいのに、
ふとした時に背後に気配を感じる。

こう考えると
「時間があると余計なことを考えてしまう」の続きは
「それくらいなら、時間はないが余計なことを考えずに済むほうがマシだ」だろう。

時間をなくすことによってでしか、「考える」ことに対抗できない。
逆に言えば、時間さえあれば、「考える」ことができる。

ゼミで読んだミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出す。


2015年3月30日月曜日

自由と責任の話。

まるネコ堂ゼミは、校舎もカリキュラムも単位もない
「大学」ではないか。

「自由にはそれなりの責任が伴います」という言い回しがある。
以前からこれを聞くたびに、ずっと気持ち悪いなと思っていた。

最近その「気持ち悪さ」の正体が見えてきた気がしている。

この一文を読み替えると、
「ぜひ自由に振る舞ってください。ただし、責任は自分自身で取ってください」となり、
もう少し続くとすれば
「もし何か起こっても私は責任を負えませんので、あしからず」となる。

このように言われる空間の中で、
人は自由に振る舞うことができるだろうか。

おそらく難しい。

* * *

「自由に振る舞う」ということについて考えるとき、
僕はゼミや、持ち寄り食会や、仕事の会のことを思い出す。

大谷さんの言う「場が壊れることをも厭わない言動」や、
小林けんちゃんの言う「丁寧で、ちゃんとした自分勝手な振る舞い」は、
ゼミや食会における参加者の「自由」な言動をとても的確に表現している。

 ■まるネコ堂ブログ「【118】ファシリテーターでない者の責任は、場が壊れることをも厭わない言動。」
 ■小林健司のブログ〜円坐のように生きる〜「寄ってたかって本を読む、まるネコ堂ゼミが面白い。」

大谷さんは上記のブログの中で、ファシリテーターを
「命がけで場を守っている人」と表現している。
それに対してファシリテーターでない者の責任は
「自分の言動によって場が壊れることをも厭わない」であるとしている。
それらが同時に存在することで、誰も予測のできないことが起こる。

命がけで守ろうとする人と壊れてもいいから全力で振る舞う人が
同時に同じ場に存在するというのは、
矛盾するような気もするけれど、
いや、文字通り、完全なる矛と完全なる盾の勝負なのであって、
だからこそ誰も想定できない状況が出現しうるのだろう。
—まるネコ堂ブログ【118】ファシリテーターでない者の責任は、場が壊れることをも厭わない言動。

これこそがゼミの面白さであって、
こうしてそれぞれがブログに書いたものを読み合っていく中で
「ゼミのおもしろさ」が言語化されていく過程自体もまた面白い。

ちなみにゼミではおそらく、
本そのものや著者が「命がけで場を守る」機能を果たしている。
だから、著者が自分の存在をかけて書いたような本でなければ、
ゼミは成立しにくいと思う。

* * *

「自由にはそれなりの責任が伴います」

これを言う人が守っているのは
「場」ではなく「自分」であるという気がする。
「たとえ場が壊れても、私の責任ではありません」と。

この一文が発せられた空間には、
本当の意味での「自由」は実現しないのではないか。

場にいる人はおそらく、それぞれに自分を守るために萎縮したり、
当たり障りなく振る舞ったりするだろう。

「自由に」と言いつつ、かなりの可能性で「自由」にはならない。
そして恐らく、場が壊れるとも考えにくい。
なんだか、ずるい。

円坐やゼミの前口上で冒頭の一文を述べられたりしたら、
肩すかしをくらってしまうと思う。

2015年3月20日金曜日

「僕と仕事」(10)「事務局」のない企画

不思議の国のアリス (新潮文庫)
『不思議の国のアリス』を読みます。
4月25日(土)開催。参加申込受付中

前回のつづき】

年明け。

夏頃から参加し始めて、定例メンバーで続けていたゼミ

友人を交えてセミ・クローズドで開催したところ、
思いのほか手応えがあったので、
「今度は参加者を募ってみよう」ということになった。

ある日、ゼミの定例メンバーで打ち合わせの機会を持った。
京都市内のカレー屋でひととおり話し、
そのあと、メンバーの自宅、
メンバー共同で借りている東山の和室と、場所を変えて話を続けた。
各々にとってゼミとはどのようなものか。
参加費はいくらに設定するのか。
人はどのようにして募集するのか。

話の途中で、おもしろいことが起こった。
以前「事務局をやる」と宣言していたメンバーが、
この日「事務局やめます」と宣言した。

どのような経過をたどったのか、細かく思い出すことができない。
ともかく、それぞれが見えているもの・感じていることを
率直に差し出していった結果として、「事務局」がなくなった。

先日、メンバーから「事務局をやる」と聞いてから、
ぼくは今回のゼミに対して少し受け身になっていた。

「募集までの段取りに関しては、また連絡があるだろう」
「打ち合わせも、いつかやるだろう」

でも、どこか変な感じだった。
ここ最近のゼミは「参加」しているというよりも、
ぼく自身も「運営」している、場をつくっている一員だという感じがあった。
「事務局」ができたとたん、さーっとその感覚が引いていった。

この日、「事務局」がなくなったとたん
「ぼくの企画である」という感じが戻ってきた。
同時に、頭がまわり始めた。

「誰に声をかけようか」
「広報文をつくりたい」

広報担当も、受付担当も決めなかった。
根っこの部分だけ共有して、概要だけきちんと決めておき、
各自で広報文は勝手につくる。
勝手にそれぞれが呼びかける。

これまでにぼくが当たり前だと思ってきた企画のやり方とは違っていた。
お金になるという確証もない。
それでも「これは仕事だ」という感覚が、確かに手元にあった。

(つづく)


2015年3月4日水曜日

「ぼくの中の他人」の力を利用して立つ。

これまでゼミで読んだ本と、これから読む本。

以前、「ぼくの中の他人が言う」という表現を聞いて「ああそれいいな」と思った。

例えば「『ある程度お金ないと結婚できないよね』と、ぼくの中の友人が言う」とか
「『次の仕事はどうするんだ』と、ぼくの中の親や親戚が言う」みたいに使う。

別に実際に言われているわけではないけれど(言われている場合もあるけど)、
「そう言われているような気がする」場面で使うと、
感じているプレッシャーの発信元がわかり、自分との位置関係がはっきりする。
発しているのはあくまで「ぼくの中の他人」であると相対化できる。

参加者を募って4月に開催することになった「アリスゼミ」の告知文を書こうとしていて、
なかなか書けなくて、冒頭の言葉を思い出した。

ゼミをやることも、「ぼくの中の他人」が増えていく過程なのではないか。

この半年で読んだ保坂和志が、椹木野衣が、エンデが、網野善彦が、
ぼくに対して確かな存在感をもって等間隔に居座っている感じがあって、
こうなると相対化はどんどん進んでいく。
冒頭に書いたような「ぼくの中の他人」の言葉に倒れ込んでしまわなくてすむ。

一方から引っ張られる力を自覚して、正反対の方向から働く力も利用して、
バランスを取って立っている感じ。

特定の主義や方向性に全面的に倒れ込んでしまわず、
でも自分の力だけで立っているわけではなく、それぞれの方向の力を利用して立つ。

ゼミ自体には目的はないけど、
ぼくがこうやって生きていくためにはゼミが必要だというのは言える。

2015年2月25日水曜日

2月24日の景色



「就職先決まって良かったね」という
「めでたい」言葉が、ぼくを上滑りしていく。

まるネコ堂で流れる沈黙の時間に、
椹木野衣『日本・現代・美術』の一節に、
網野善彦『無縁・公界・楽』の一節に、
ゼミでのやりとりに、
無根拠・無目的な現代において生きていく根拠を感じる。

今は、そういう景色が見えている。

2015年2月11日水曜日

「今何してるの?」に対するカウンター



年末のゼミ合宿で読んだ『モモ』に、印象的な一節がある。

「時間どろぼう」である灰色の男たちは、主人公・モモの古くからの友だちを次々に「時間貯蓄家」にしてしまう。異変を感じたモモが友だちを訪ねることで、結果として灰色の男たちの邪魔をすることになる。それを快く思わず、モモを自分たちの術中にはめようとする灰色の男と、それに抵抗しようとするモモのやりとり。

「むだな骨折りはやめたほうがいいよ。」と彼は言いました。「われわれに立ちむかおうなんて、できるわけがないからね。」モモはあきらめませんでした。「それじゃ、あんたのことを好いてくれるひとは、ひとりもいないの?」と、彼女はささやき声でききました。灰色の紳士は背中をまるめて、きゅうにがっくりうなだれました。(ミヒャエル・エンデ『モモ』:128p)

この一節は、これまたゼミで読んだ『考える練習』の一節と通じる。

日本の自殺者は3万人になっています、世間はこんなに大変な状況です、ということに対するぼくの回答は、たとえば「カフカを読むことだ」っていうことになる。対抗すること、カウンターを出すことが遠回りだけど解決になると思う。(保坂和志『考える練習』:86p)

ぼくは去年の春から、「ぱーちゃんは今何してるの?」という問いとたたかい続けている。

たいていの場合、この問いには「次は何の(フルタイムの)仕事をするの?」「就活はしないの?(早めに動いた方がいい)」という暗黙のニュアンスが含まれていて(少なくともぼくはそれを感じ取っていて)、その都度「ちょっと一息ついてから考えようと思ってるねん」とか「知り合いからある仕事に声をかけてもらってて、どうするか考え中やねん」とか答えていた。

でも実際のところ、これは「本来あるべき場所に辿り着くまでの過渡期・移行期間」というニュアンスの返答であって、もっと言えば、そうした答えを期待する相手が安心する落としどころに向けた返答であって、自分としては全くしっくりきていなかった。

この問いに対しての、「それじゃ、あんたを 好いてくれるひとは、ひとりもいないの?」あるいは「カフカを読むことだ」に相当するカウンターはないものか、とずっと考えている。

…と、いうようなことを書きたい。

と思いながら、こたつに入って『モモ』と『考える練習』とノートパソコンを広げていた。

すると、また弟が部屋に来て「何してるん」とぼくに聞く。

「えーっと」少し考えて、ぼくは「本読んで文章書いてる」とこたえる。
「文豪みたいやな」と笑って、弟は部屋を出ていく。

弟が閉めた部屋のドアを見ながら、ぼくは「ああ」と思う。

「本を読んで文章を書いている」

これなら、一致している感じがする。
今度使ってみようか、という気分になってノートパソコンに向かう。


2015年1月25日日曜日

「歴史」の見え方が変わってきている。

講読ゼミの本を読んでいる。
今日読んでいたのは、網野善彦『[増補]無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』。この歴史学の本を読む「無縁ゼミ」(と勝手に呼んでいる)が今月から始まって、2回目に向けて読み進めている。

ぼくはこれまで、「歴史」に対してはどこか「飲み込めなさ」みたいなものを感じていた。試験のための「歴史」は、ただ粛々と暗記するもの。過去の人物のドラマチックなストーリーを追う「歴史」は、一部の人が楽しむ趣味のようなもの。

ここ半年くらいで、この見え方がすこし変わってきている。いま自分が見ている景色の下に、低い音を立てて「歴史」がうごめいているような、そんな感じがしてくる。
「歴史」について思い起こすことを書いておきたい。

高校時代。
日本史を受験科目に選ばず「定期試験さえ乗り切ればいい」と思ってやり過ごす。効率よく暗記する方法ばかり考える。

数年前。
大河ドラマ『龍馬伝』をみてみようかなと思う。数話見て興味が薄れて見るのをやめる。

去年の夏頃。
大谷さんに網野善彦の話をきく。絵巻物の隅っこに描かれている人たちの「歴史」があることを知る。

去年の秋頃。
中沢新一の『アースダイバー』『大阪アースダイバー』を痺れながら読む。久しぶりに高校時代使っていた日本史の資料集を引っ張りだしてくる。
『大阪アースダイバー』に取り上げられていた大阪の四天王寺とその界隈を歩いてみる。
『無縁・公界・楽』ゼミが開催されることになる。参加することにする。

去年の年末。
知人と飲んでいて「戦国武将で誰が好きか」みたいな話になり、何も言えずに居心地が悪くなる。なんで皆「好きな武将」の名前とその理由までばっちり言えるんだろうかと不思議に思う。

先週。
「無縁」ゼミ一回目。

数日前。
東山の和室で『無縁・公界・楽』を読む。なかなか進まない。歴史上の用語を調べる手だてがなく、わからない部分をスルーして読み続けていって、読む気がしなくなってしまう。

今日。
去年古本でわざわざ買った『日本史B用語集』とパソコンを手元に置いて、わからない部分を調べながら読み進める。おもしろい。このことをブログに書きたくなる。