文章を「適当に書く」ということができない。
いまとある文章を書かないといけなくて、それに取り掛かっているのだけれど、思ったよりも時間がかかって疲れ始めている。
今現在のぼくとしては特に語るべきことがなくて、けれど立場上何かを語る必要があって、そうした状況の中にもう一度自分を投影してみると、「何かを語る必要がある」と「かろうじてこれだけは言えるかもしれない」という2つの要素がぎりぎり交差する箇所が少しだけ見えてくる感じがあって、かろうじてそれを掴み取って文字に書き落としていく。書き残した文章を見返すとそのぎりぎり交差する箇所からわずかにずれていることが分かって、もう少し右、いやもうちょっと左だ、という具合に微修正を重ねていく。もうあとは体力と締め切りの問題で、それこそもう、今現在のぼくとしてはこうとしか書きようがないという部分で、それは微修正する体力的・時間的・技術的な限界によって書くことが終了する。
自分の書いたものが何も語っていない、一見何かを語っているようでぼくとしては何も語っていないことがありありと分かるような一文があって、その空虚さ、意味は通じるけれど価値のまったくないその一文を見るにつけ、ますます「適当に書く」ということができないと痛感する。
たとえば仕事の報告書なんかはまったく別で、「何を語る必要があるか」に焦点を合わせてそれに応じた情報を集めて的確に配置することに注力すれば出来上がる。自分だけで完成にたどり着くケースというのはほとんどないので、いっしょに仕事をしている人との共同作業の中で焦点のズレを修正したり、足りない情報を補い合って文章が完成する。
今回の場合ややこしいのは、過去の自分としては大いに語ることのあった場所についての文章で、今の自分とその過去の自分とは明らかに距離があって、けれど「距離がある」とだけ書くことでは完結しないと自分が感じているという点にある。もっとほかに「語るべきこと」があるような気がしていて、同時に「何かを言いたい」ような気もしている、という小さな波がざわめいているのを感じていて、それをうまくすくい取って言葉に残せられれば書けるのだろうし、すくい取れなければ書けない。
という今の状況が書けたということには、とても満足している。