「持ち寄り食会」と名付けられた会は、まさに勝負だった。 |
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問題。
(1)お世話になっていた人から声をかけてもらった仕事。「ちょっと引き受けにくい」と思いながらも「今さら断れない」という気持ちの方が強く働いている。ここで引き受けるかどうか。
(2)用事で疲れきっていて、早く帰って何か甘いものでも食べたい。帰り道、ブックオフの10%引き券が財布に入っていることを思い出す。有効期限は2日後。寄って帰ろうかという考えがよぎる。ここで帰るかどうか。
(3)誘ってもらった集まりに魅力を感じていて、とても行きたいけれど、用事でフル参加できない。夜から行けば顔は出せる。でも途中から行っても自分としてどう居ていいか分からないし、無理をする感じが気にかかる。でも行けば何かあるかもしれない。ここで行くかどうか。
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前回書いたラーメン屋の話もそうだけど、日々、重たい内容から些細なことまで、こういった問題が目の前に次々とやってくる。
こういう問いに対する「自分にとっての答え」は、問いが発生した時にもう出ているのでは、と最近思い始めている。
選択の渦中にいるときは「出ているはずの答え」はなかなか見えない。「悪く思われたくない」とか、「一応」、「今のうちに」、「せっかくやし」、「もしかしたら」、「こうしておけば」、そういう考えが強烈な力をもって自分に迫ってくる。
「出ているはずの答え」に到達できるかどうかは、「迫り来るもの」との勝負にかかっているのではないか。
残念ながら「迫り来るもの」たちに負けた場合、自分はそこには居ない。自分の居どころから外れた理屈や、見かけとしては奇麗で分かりやすい動機が残る。一見これは他人に理解されやすいけど、実際には自分も周囲も満足しない。もしくは、満足したように取り繕うことにエネルギーが注がれる。
見事「迫り来るもの」たちに勝てた場合、自分としてそこに居ることができる。見栄えが悪かったり一貫性がないこともあるけど、今自分から見えている景色については、かろうじて何か言うことができる。そこからスタートして他人とやりとりができる。
こんなことを考えていると、世に「勝ち組」「負け組」と言う場合の「勝負」は、本当の勝負ではないという気がしてくる。ただ、淡々と自分の中に「勝ち戦」と「負け戦」が積み重なっていく。これが本当の勝負なのではないか。
最初に書いた3つについては、勝ったと思う。なんだかこう書くとかっこよすぎる感じがして気持ち悪いので、ちょっと勇気がいるけど今度は負け戦のことも書いてみようかなと思う。
追記。
冒頭3つめの勝負については、やっぱり行きたかったので一概には「勝った」と言いにくい。トータルでは「負けた」感じもする。。
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