2016年12月26日月曜日

「言葉の表出 冬合宿2016」を終えて

「言葉の表出 冬合宿2016」が終わった。

一夜明けて今日出勤して気がついたのは、ものすごい磁場というか重力が働いていた場所にいたんだなという感じだった。それくらいの重力がなければ書けなかっただろうし、それがあったから書けたような気がする。

職場で働いている重力はぜんぜん性質の違うもので、どちらが良いとか悪いとかいうことではなく、ぜんぜん違う。だから職場の重力の中にずっといるとその重力に合った筋肉が発達していく感じがして、昨日までの合宿で働いていた重力に合った、つまり書くことに関する筋力はちょっと鈍っていた感じがする。

なので何かきっかけがないと書くことができなかった。書く重力にいちど集中的に慣らしていって、ようやく書けたのだという感じがする。それには今の僕には2泊3日くらいは必要だったように思う。

何かを書かないといけない、というわけでもないし、何かを書きたくてたまらない、というわけでもない。なので、書く重力の外にずっといると何も書かない、という状態が続いていくように思う。

けれどやっぱり書くことはおもしろいし、それをちゃんと読んでくれる人がいるということは嬉しいし、そうするとまた書こうと思う。そういうことがとてもよくわかった。

上手い文章を書くとか、受ける文章を書くとか、そういうことから離れて「ただ書く」ということは難しい。気がついたら「ただ書く」ということすらも対象化して、「ただ書く」ということを「上手くやろうとする」自分がいる。

けれど、上手くやろうとするとかそれ以前に、どうしようもなく文章ににじみ出しまうその人の何かみたいなものがある、ということもわかった。そういう風に思えたら、これからも書いていけるような気がした。

またきっと「うまく書けない」とか「書かなきゃいけないわけじゃないけど、書けない」とか、同じことをぐだぐだと言うことがあるのだろうと思うけれど、でもまた書いていけそうだ。

『このブログについて。』(「言葉の表出 冬合宿2016」で書いたもの)


合宿で書いた文章を、公開しようと思います。

ほんとうに楽しかったし、書いたものをここで公開しようと思えることが嬉しいです。

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自分のブログについて。


2年前に開設した、自分のブログのことを考えている。これはもう7ヶ月更新をしていなくて、その間に実はもうひとつ別のブログを匿名で作って、しばらくそっちの方を更新していた。

もとのブログは実名を冠して始めたのだけれど、途中から実名を出すことが少しはばかられるようになって、ブログのタイトルを変え、プロフィールを変え、ついに更新しなくなってしまっていた。

書き始めの頃は、所属や肩書きがいちど白紙になったときだった。だから、個人の名前で何かやるということへの憧れなんかも手伝って、どんどん書いた。何か特別なことはできないけれど、文章を書くということはやれる気がしたし、ただただ楽しく、ずっと書いていられるような気がしていた。

いま、ちょっと状況が変わっていて、職場の人に実名検索されたらちょっと嫌だなとか、職場の人に読まれたらどう思われるんだろうなとか、そういうことを考え始めるようになってしまった。そういう状況から逃れるようにして、誰も僕を知らない場所で、何か書くということをしてみたくて、匿名で別のブログを書き始めたのだった。

そっちの新しいブログを開いてもう数ヶ月が経つと思うのだけれど、そっちはそっちで実の友人とかには誰にも教えていなくて、別に隠しているわけではないけれど、なんだかそれはそれでどうなのかな、とも思っている。

ずいぶん前に人と話していて、水泳のターンの話が出たことを思い出す。プールで方向転換するときのターン、あれはターンした直後はその勢いでずっと進んでいられるような気がするけれどしばらくしたらその勢いは失われて、自分でバタ足するなり、手で掻くなりして進まないといけない。

もとのブログを書き始めた頃はほんとうにそのターン直後だったのだと思うし、しばらくその勢いで進んでいられたのだと思う。いまはもうターンしてだいぶ壁からは離れてしまった感じがある。なので、「僕はあの壁からターンしたんだ」みたいな言い回しはもう使えない感じがするし、言いやすいからそういうことを今でもたまに言うのだけれど、そう言った瞬間に自分の中にあるテンプレートを話しているような感じもして、つまんないなと思ってしまう。そしてこういうことを、以前も書いたじゃないかと思って、またかよ、と自分で思う。

この記事を書き始めようと思ったのは、ブログ「ていれとつくろい」の最後の記事を改めて読んだからだった。「区切りをつけたくて」書かれたという最後の記事を読んで、ああそうか、僕もブログをいったん閉じれば、何かわかるのかもしれない。そんなことを考えた。

改めて自分が過去に書いたブログの記事、特に2年くらい前の記事を読み返してみると、そのころの自分の切迫した感じが強く出ている感じがする。けれど、やっぱり改めて読み返すと今の自分とはずいぶん距離があるよな、とも感じる。

僕はどこかで、「この頃の自分」をどこか「あるべき姿」と置いてものごとを見ている節があったのかもしれない。「この頃の自分」みたいに書けない、人と何かができない、みたいな気分に取り憑かれて、身動きが取りにくくなっている部分があったのかもしれない。

以前、「あの人みたいになりたい、なるべきだ」という気持ちにどっぷりとはまってそこから抜け出せず、自分とのギャップに苦しんだことがあったのだけれど、まさか自分がその対象になるとは思ってもみなかった。

と、書いてみたけれどこれまでにもこういうことはよくあったことだ。中学校時代にあんなに楽しかった部活が高校に行ったら面白くない。大学1年生の頃あんなにおもしろかったサークル活動が2年生になったらそうでもない。同じようなことは、これまでにもちょくちょく起こっていた。その都度、過去の自分みたいになれない、という気持ちに引っかかって、その時好き勝手に振る舞えなかったような気がする。

今回もそういうことだったのかもしれない。自分のブログを開くと、かつての自分の記事から、「これでいいのか、お前は」と言われているような感じがしてしまう。だから更新しにくかったのだと思う。「書かれたものはその人の死体だ」というのは大谷さんの言葉だけれど、ずっと僕は自分の死体から語りかけられ続けていた。別の媒体ならまだしも、かつての自分の死体が累々と積み重なっているような場所を覗き込むたびに、目が合ってしまう。そのたびに、ちょっと一瞬躊躇するのだろうと思う。ページを開けば「関連記事」として過去の記事がランダムに表示されるので、どうしても目に入ってくる。

だから、同じ媒体で何かを書こうとすると、そっちの力に引っ張られて「この頃みたいに書けないといけない」という気分が先に立って、今あるものが霞んでしまっていたような気がする。別のブログを作った時はそんなことは言語化できなかったけれど、今になるとそういうことなのだろうと思う。言葉の避難場所をつくったのだと思う。

だから今のブログをどうしよう、ということはちょっとすぐに結論は出せない。けれど、そうまでして引っ張られるのならいっそ違う場所で書き続けてもいいし、引っ張られていることを自覚できれば、気にせず書けるという気もする。とりあえず、「関連記事」のガジェットは外してみようかと思っている。 

2016年12月25日日曜日

「言葉の表出 冬合宿 2016」

「言葉の表出 冬合宿 2016」の最中です。

久々に文章をじっくり書いていて、猫アレルギーで鼻も辛いですがなんとか書いています。

現場からは以上です。

2016年5月10日火曜日

近況

かれこれ近所のタリーズコーヒーに3時間くらいいる。大学のキャンパス内にあって、wi-fiが飛んでいるので来たのだが、インターネット欲が爆発してしまった。先週たまたま実家で第1話を観て面白かった『トットてれび』の続きとかを観て、phaさんとか大原扁理さんのブログを読みあさっていた。ブログに中島みゆきの話が出てきて聴きたくなって、「時代」をYouTubeでリピートしている。

つい最近まで自宅のネットは超低速の格安simを使っていて、動画が観たくなって最近simの契約コースを変えた。けれど接続上限が思った以上に気にかかるということに気づいてしまった。ネットくらいはもう少し何も考えずに使えるようにしてもいいかもしれない…。

4月からは引っ越すし仕事の仕方も少し変わるので、考え事をしたりブログを書いたりできるといいな…みたいな想像が膨らんでいたんだけれど、いざ引っ越してみると目の前の生活をまわすので一杯だ。一杯というか、生活をまわすこと自体が案外おもしろくて、自分の着た分の服を手洗いして朝からベランダに干したり、人から教えてもらったレシピの料理を試してみたり、近所の100円ショップでS字フックを買いまくって生活環境を整えたりしている。

いま住んでいるところは「とにかく安いところ」と考えてシャワーが共用の物件を選んだ。部屋に風呂がないことに関しては、一時期友人と共同で借りている風呂なしの和室で3ヶ月暮らした(銭湯に通った)のでそんなに抵抗はなかった。実際住み始めてからも不便は感じていなかったんだけれど、ある朝シャワーを浴びようと思ったらちょうど掃除中だった管理人さんにとても迷惑そうな顔をされて、シャワー浴びようと思うたびに「管理人さん居たら面倒だな」という考えがよぎるようになってしまった。引っ越す前は「風呂場を所有する必要はないのでは」みたいなことを言ってたけど、早くもネットで風呂付き物件情報を漁ってみたりしている…。

「あと⚪︎⚪︎円出せば風呂付き物件に住める」というところから始まって、「ああ、あと⚪︎⚪︎円出せばわりと新しめの物件があるのか」みたいなことを考え始める。こうなるとけっこう際限がなくて、耐震基準が気になって「築何年か」を見始めたりして、気づいたらずっとSUMOのページを更新し続けたりしていてとても疲れる。

あとは「今の収入ならこれくらいの場所に住んでもいいのでは」みたいな考えもよぎり始めて、こうなるともう住む場所を選ぶという感じではなくなってきて、これのスケールが大きくなるとタワーマンションを買いたいとかそういう感じになるんだろうか、とかそういうことを考える。

とりあえずパソコンの電池が残り4パーセントなので帰ります。

2016年4月2日土曜日

引っ越しました。


京都市内で、出町柳から歩いて10分くらいのところです。

物はあまりたくさん持って来ないようにしたんですが、いざ住み始めてみるとあれも必要これも必要みたいな気持ちになって毎日買い物していて、ちょっと疲れていました。

一人で部屋にいるとなんだか何もできない感じになってきて、さっきリュックひとつ背負って川に出てきたんですが、やっぱり川はいいです。

風が吹いていて、人の声が聞こえて、信号の音がして、車が走っていて、
自分からなにもしなくても景色が変わっていって

ブログも、ちょっと引っ越そうかなと思ったりしています。

まだ具体的には何も見えていませんが、そんなことを思っています。

2016年1月31日日曜日

空白にできる染み

「僕と仕事」という記事を、ちょうど去年の今頃書いていた。

もう1年も経つのかと思う。そしてここに書かれている内容自体はほぼ2年前の出来事からスタートしているので、やはりもうそんなに経ったのかと思う。

自分がもう道具のようになって動くことには、道具として機能した時の手ごたえを感じられる確かな心地よさがある。その流れに乗ってしまえばある意味何も考えなくていい、というか考えていられないようなすーっと平行移動していくような感覚があって、それはそれで悪くないなとは思う。

道具としてどこまで精度高く機能できるか、みたいなこと試してみたい、という気持ちもある。それを試そうという気持ちにもならず、とにかく生き延びるのが必死というほど追い詰められている状態のときが過去にあって、それを思うとああ、あの時はそういう試みをしようと思えるような状態ではなかったんだなということも思う。

けれどぽかっと空白ができた時に、このままでいいのだろうか、このままではやばいのではないか、という感じがどこからともなくやってきて、落ち着かなくなる。

と、ここまで書いていて友人から電話があって途切れた。

書こうとしていたことがあったと思うのだけれど、ぼんやりと薄れてしまった。

ええと、そうだ、空白のことを書こうとしていた。

空白を空白のまま置いておくというのはなかなか難しい。空白のエリアには、外からの意味づけの力が常に染み込んでくる。外には目に見える根拠があってそれなりに社会的には多くの人が信じている事柄だったりするので、その染みをみてぼくは「ああ確かに、言われてみればそうだ」という気分になる。

ここまでくるとその染みを染みとして捉えて取り入れてみるのもありだし、染みは染みとして外部に置いたままにしておくのもありだ。

というか染み出してきている時点でその境目は曖昧で、もう染みとしてそこにある。空白のままでなければいけない、とか、染みの部分を絶対的なものと捉えて傾倒しなければいい、とか、そういうことをつい考えてしまうのだけれど、「こちら側に染みてきている」という書き方をしている時点で自分がどちらに立っているのかがわかる。

これでいったん十分だと思う。

2016年1月22日金曜日

嫌な夢を見た。

嫌な夢というのを久々に見た。

ある状況でぼくがひとつミスをして、それについてある人に糾弾されるという場面だ。最初は一対一で追及されて、そのあと周りの人に対して見せしめにされたような場面に移る。

ミスの内容とか場面設定自体は現実味がないのだけれど、登場した「ある人」は実在する人で、この嫌な感じは実際にその人との間で過去に経験した感じと同じだ。
実際は「ある人」は見せしめにするつもりなどなかったのかもしれない。けれどその時の
「嫌な感じ」は実際にあって、昨晩もまた体験してしまった。
だから何なのか、ということは言いにくいのだけれど、そういう夢を見た。

2016年1月17日日曜日

契機が突然やってくる

最近メンタルの調子があまりよくなくて、何もしたくなくなったり動きたくなくなったりすることが多い。事前に申し込んで参加する予定だった「読む・書く・残す 探求ゼミ」も、昨日は欠席してしまった。

そんな中で今日、吉本隆明『共同幻想論』ゼミに行ったのだけれど、初対面の方がいて、なんと東京から来たという。もうなんだかそのことを聞いただけでぱーっと視界が開けたように面白くなって、ああ、こういうことが起こるんだなあと嬉しい気持ちになる。

年をまたいだタイミングくらいから明らかに自分の何かの位相が変わってしまった感じがしていて、それは何かと言われてもうまく説明がつかないのだけれど、なんとなくそういう気がしている。住む場所を探していたら疲れ果ててしまったり、友人と一緒にやろうと決めた企画のことがぜんぜん考えられなかったりして、なんだか身動きが取れない感じになっていた。

今日は少しだけどこかに着地できたような気がしていて、企画のことも考えられそうだ。こういう契機はきっと自分でコントロールできる類のものではないのだろう。やってくればやってきたとわかるけれど、やってくるまではやってくるかどうかはわからない。