2016年1月31日日曜日

空白にできる染み

「僕と仕事」という記事を、ちょうど去年の今頃書いていた。

もう1年も経つのかと思う。そしてここに書かれている内容自体はほぼ2年前の出来事からスタートしているので、やはりもうそんなに経ったのかと思う。

自分がもう道具のようになって動くことには、道具として機能した時の手ごたえを感じられる確かな心地よさがある。その流れに乗ってしまえばある意味何も考えなくていい、というか考えていられないようなすーっと平行移動していくような感覚があって、それはそれで悪くないなとは思う。

道具としてどこまで精度高く機能できるか、みたいなこと試してみたい、という気持ちもある。それを試そうという気持ちにもならず、とにかく生き延びるのが必死というほど追い詰められている状態のときが過去にあって、それを思うとああ、あの時はそういう試みをしようと思えるような状態ではなかったんだなということも思う。

けれどぽかっと空白ができた時に、このままでいいのだろうか、このままではやばいのではないか、という感じがどこからともなくやってきて、落ち着かなくなる。

と、ここまで書いていて友人から電話があって途切れた。

書こうとしていたことがあったと思うのだけれど、ぼんやりと薄れてしまった。

ええと、そうだ、空白のことを書こうとしていた。

空白を空白のまま置いておくというのはなかなか難しい。空白のエリアには、外からの意味づけの力が常に染み込んでくる。外には目に見える根拠があってそれなりに社会的には多くの人が信じている事柄だったりするので、その染みをみてぼくは「ああ確かに、言われてみればそうだ」という気分になる。

ここまでくるとその染みを染みとして捉えて取り入れてみるのもありだし、染みは染みとして外部に置いたままにしておくのもありだ。

というか染み出してきている時点でその境目は曖昧で、もう染みとしてそこにある。空白のままでなければいけない、とか、染みの部分を絶対的なものと捉えて傾倒しなければいい、とか、そういうことをつい考えてしまうのだけれど、「こちら側に染みてきている」という書き方をしている時点で自分がどちらに立っているのかがわかる。

これでいったん十分だと思う。

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