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2015年3月28日土曜日

「仕事」や「働く」について話す場を開いた。



昨日、仲間内に呼びかけて「仕事」や「働く」について話す場を開いた。
6畳の和室に8人で坐って、ただ話した。

なんというか、すごい体験だった。
この時間のことを安易に言葉にしてしまうことに抵抗もあって、
ブログに書くようなものなんだろうか、という気もする。

「こういうことがわかった」とか「これが見えた」みたいに
表現してしまうのは嫌で、
それでも何かを書き残しておきたいという気持ちになっている。

場を開くまでは、
僕の話をどのくらいして始めようか、とかを考えて、
きっと事前に考えてもあまり意味がないと思って、やめて、を繰り返していた。

開いてみると、
自分の話しかしてないぞ、自分でも何を言いたいかわからなくなってきた、
わざわざ皆来てもらったけどこれでいいのかとか、
自分が丸裸になっていく怖さとか、そういうものが一挙に迫ってくる。

終わってみて、
一人では到底見えなかったものが見えている感じがあって、
今回来てもらったメンバーに助けられたというか、
でも「情けをかけられた」という感じも、
最初気にしていた「僕の話につきあわせている」という感じもなくて、
同じ船に乗っている仲間になれた感じがあって、
その言いようのない嬉しさと、心強さと、エネルギーを使い切った疲れと、
自分の中身が入れ替わったような気持ちよさが残っている。

今は、見えているものを、
ずっと書き続けている「僕と仕事」に書いてみたいという気持ちでいる。

2015年3月27日金曜日

「銭湯に行くかどうか」が決まる過程に、生き方を見る。

まるネコ堂の庭。

友人の大谷さん澪さんの自宅であり、
リュック屋さん「carapace」の工房でもある「まるネコ堂」に泊まりにきている。

おととい、ぼくが「銭湯に行きたい」と言い出し、
でも近所の銭湯は閉まっているので、
少し遠くにある銭湯に行くことになっていた。

昨日、3人で用事を終えた帰りの電車内。
予定ではこの後、最寄り駅で降りて銭湯に行くはずが、
少し様子が違ってきていた。

最初は、大谷さんだったか澪さんだったかが
「猫のごはん、あげないとなあ」とつぶやく。

ぼくは「お風呂は入りたいけど、猫のごはんの事情もあるんだったら、
無理しなくてもいいかな」と、居どころが不明な感じで言う。

ここから、ぐらぐらと、手探りの時間がはじまる。

  無言の数分間。

  この数日、いつもと違う時間を過ごして、だいぶ疲れてた。
  そうだよね疲れたよね。

  わざわざ遠い銭湯に行くのも面倒な気がする。
  じゃあ銭湯に近い駅が手前にあるから、そこで降りるか。

  電車を乗り換える。

  なんだか銭湯のことを考えるのに疲れてきた。

  近所の銭湯が空いてたら迷わず行くけど、
  わざわざ遠い方に行く感じでもない。

  電車を乗り換える。

  早く家に帰って休みたいけど、ごはんを作るのは面倒。
  じゃあいっそ外食するか。なるほど。
  でも何が食べたいという感じでもない。

  かなり疲れてて、銭湯に行けば癒せるんじゃないかという期待がある。
  でも、家に着いて一息つけば落ち着く気がする。

結果、「近所のスーパーでお惣菜を買って帰り、
お風呂は入りたければ家で入る」というところに落ち着いた。

スーパーに寄って、ごはんを調達して、
3人でもぐもぐ食べて、ぼくはお風呂に入った。

* * *

この間、とある友人が言っていた。
「目指していた目標を達成したら、その先のゴールが分からなくなってて」

ぼくは
「目的や目標もなく、何かにすがろうとせず、
 それでも楽しく生き延びていくことばかり、最近は考えてる」
と話したけれど、いまひとつ伝わった感じがしなかった。

「どう生きるか」と「銭湯に行くかどうか」では
スケールがあまりに違うように見えるけれど、
ぼくはこの「銭湯に行くかどうか」の会話にヒントがある気がしている。

結論にたどり着くまでに、たぶん1時間くらいかかった。
「いつまでもうだうだ言ってないでさっさと決めたら?」と
端から言われてしまいそうなやりとりだと思う。

渦中にいるぼくにとっても、
ボールの上の板に立っているくらい不安定な感じがするので、
「とりあえず銭湯行こう」「とりあえず帰りますか」とか言ってしまいたくなる。

けれど、それをやると大抵おかしなことになるし、
逆に「今いる場所から見えている景色を差し出し合う」ことができさえすれば、
ある程度変なことにはならない、という実感が
ぼくにも、多分あとの2人にもあるので、この日はそうならなかった。

小林けんちゃんのブログ「目的や目標を中心から外す生き方」を読んで、
友人とのやりとりと昨日の体験を思い出して、書きたくなった。

目的や目標が「ない」というよりも、
「中心から外す」という感じなのかもしれないなあ。

2015年2月17日火曜日

個人として、場を引き受け切るということ

去年「モーニング・ミーティング」を体験した「上勝"少年"探偵団」。
ここでの「沢登り」の感覚も、ぼくの中に深く残っている。

去年の秋から、とある通信・単位制高校の授業を担当していた。

「自己理解」や「将来の生き方」がテーマで、1クラスあたり3回の授業を2クラス分。
10名前後のクラスで、およそ1ヶ月おきにぼくの担当回がやってくる。

今月はその最終回で、「モーニング・ミーティング」というのをやった。

これは、その場にいる人が「PROBLEM(困っていること)」「PLANNING(やりたいこと)」「SHEARING(分かち合いたいこと・きいてほしいこと)」の3つを出し合って、場をつくっていくというもの。特にあてはまるものがない人は、無理に出す必要はない。
もとは、アメリカのフリースクールで取り組まれているものらしい。

ぼくはこの1年間で2回ほどこれを体験していて、このタイミングでぼく個人として今回の仕事を引き受け切るにはこの方法がしっくりくる感じがあったので、やってみることにした。

実際にやってみるにあたって、小林けんちゃんから「仕事の現場で応用している」という話を聞いて勇気をもらっていたものの、かなり不安だった。

なにしろ、あらかじめ「出る」と予測される成果を示すことができない。

例えば「自分の10年後を想像して表現する」といったアクティビティに取り込んだ場合。
場にいる人が活動を放棄しない限り、必ず何らかの「想像した内容」は表現される。そしてその「想像した内容」自体は場に居る本人によって出されたものなので、「学び手が主体となって、自分の将来を考える機会をつくった」と言える。場のつくり手は、最大限その場にいる人がテーマに対して前向きに向かっていけるよう、取り組む作業内容やその順番・時間設定などに工夫をこらす。

いっぽうで今回の場合。
誰ひとり発言せず、90分が終わるかもしれない。誰かは発言したとしても「将来の生き方」とは全く違う話ばかりが出て、生徒から「何の意味があったんですか」と言われるかもしれない。担当の先生からは「自由にやってください」と言ってもらっているけど、本当に大丈夫だろうか。最悪、ぼくを紹介してくれた方にも、迷惑がかかるのではないか。

そんな気分で行きの電車に乗っていると、
「安心して発言しやすくなる効果が期待できるアクティビティ」を冒頭に入れようか…
場を開いたあと、ぼく自身が「PLANNING」に名前を書いて「それぞれの将来の生き方について聞かせてほしい」などとプランを提案してしまおうか…
こんな考えが、何度もよぎった。

でも、「違うな」と思ってやめた。

ぼくはこれまで、上に書いた前者の「自分の10年後を想像して表現する」ような場づくりのノウハウを学んできたし、こうしたやり方で引き出されるものも確かにあると感じている。そういう場にも立ち会ってきた。そして、このやり方ならある程度の場づくりができる自信もある。

でも、今回はどうも「前者の方法でいこう」という感じにならない。皆それなりに「将来の生き方」については言葉にするだろう。でも、「生き方」がテーマなのにも関わらず、ぼく自身の「生き方」が乗っかっている感じは一切しない。今まさに生きているぼくの「生き方」はちょっと後ろに置いておいて、安全なところからプログラムだけを投下しようとしている感じさえする。

これが組織として受けている仕事なら、事情は違ったかもしれない。
場のねらいと、組織の目的と、先生からの組織への期待との折り合いの中で、プログラムを選択したと思う。

でも、今回はそうではない。とすれば、ぼく個人というものを最大限出し切って勝負するしかない。ふだん「自分が自分として居ることの勝負だ」と思っているゼミや、持ち寄り食会を思い出す。自分を隠すものが何もない丸腰の緊張感の中で、「自分として居る」ことだけを頼りに、場をひらいた。

結果としては、「100%上手くいった」かどうかはわからない。
最後も「授業なので何か言わないと」という気持ちが起こって、喋りすぎたかもしれない。

でも少なくとも、ぼくが聴かせてもらった声はその人そのもの(まさに、「生き方」)が乗ったものだったと思う。初回授業では、ぼくがお題を用意して「将来の生き方」についてのテーマトークをしたのだけれど、その時よりもずっと生々しい、その人自身の質感をもった事柄が場に出され、それを分かち合ったような手応えがあった。

ぼくは決して、プログラムをあらかじめ用意しない「非構成的な場づくり」こそが正しい/正しくないとか、そういうことが言いたいのではない。

今回、ぼく個人として「生き方」をテーマにした場づくりを引き受け切って全力で返そうとすると、この方法を選択し切ること、「有る」ことへの誘惑に負けないこと、場に出された声に向かい切ること、こそが勝負所だった。

ということを、書き残しておきたかった。

2015年2月4日水曜日

無念だとしか言えない

猫は「無念」とか思うことはないのだろうか。

最近「とある場に誘ってもらった」という出来事があって、そのことをこんな風に書いた

とても行きたいけれど、用事でフル参加できない。夜から行けば顔は出せる。でも途中から行っても自分としてどう居ていいか分からないし、無理をする感じが気にかかる。でも行けば何かあるかもしれない。ここで行くかどうか。

結局この場には行かなかった。

この「行かなかった」ことをぼくは先の記事の中で「勝った」と表現した。「どう居ていいかわからない」「無理をする感じが気になる」という自分の居どころを掴めたこと、それに忠実に動けたこと、そんな手応えについて書きたかったのだと思う。

しかしこの場に参加した大谷さんと話をしていて、実際にはぜんぜん勝ってなんかいないと思い知った。むしろ勝負から逃げていた。

大谷さんはこの場に「勝負をしにいく」と言って出かけたそうだ。ぼくも、そんな感覚があった。この場は自分にとって大事な勝負になる、そんな気がしていた。

でもぼくは結局行かなかったのだ。予定もやりくりできず、どんな顔をしてリングに上がればいいかがわからず、途中出場もしなかった。不戦敗だった。

そして、あろうことか「勝った」みたいな顔をして記事を書いたことがどうしようもなく恥ずかしい。

もう、無念だとしか言えない。

2015年2月3日火曜日

インドカレー屋の30分

カレー屋を出てからの散歩のほうが、
よほどいい時間だった。


何日か前の負け戦の記録。

カレーの味が、とか、店員の態度が、とかいう話ではなく
「カレー屋に入った」という時点でもう何かがズレ始めていた。

この日感じていた疲れやストレスを正面から受けとめきれず、
「カレー屋で食事をする」ことを通して和らげようとしていた。

結果としては別に和らぐことはなかった。

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昼頃。ビルの階段を上がり、2階のインドカレー屋に入る。
奥のテーブル席に座る。

店員が水を運んでくる。
店先の看板で目にした「日替わりカレーのランチセット」を注文する。
「カレーの種類は何だろう」と思う。
特に店員から説明はなく、そのまま店員の後ろ姿を見送る。

カバンからiPhoneを取り出す。
「きっと飛んでないやろうな」と思いながら、公衆wi-fiを探す。
案の定接続できる電波はなく、画面をただ何度か指で横になぞって机に置く。

テレビの音が聞こえる。
「殺害されたジャーナリストの母親がコメントを発表した」とキャスターが話している。

店内に大きな話し声が響く。
インド人らしき店員同士が、恐らくインドの言葉で話をしている。

スープが運ばれてくる。
何のスープか聞き取れなかったが、聞き返さず飲む。
カレーが来るまで残しておこうか、と考えて手を止める。

別の店員がにやにやしながら近づいてくる。
店員がぼくのスープカップに手を伸ばす。
まだ中身が残っているのを見て「オゥ、ゆっくり飲んでください」と言って去っていく。

しばらくして、同じ店員が「オイシイカレー、オイシイカレー」と言いながらカレーとナンの乗った皿を持ってくる。
ぼくは「これ何ですか」と2種類のカレーを指差して店員にたずねる。
よく聞き取れなかったが、「ほうれん草鶏ミンチカレー」と「野菜カレー」だと解釈する。

「野菜カレー」には、薄く切ったマッシュルームとグリーンピースが入っている。
「ああ」と思う。
「野菜カレー」を「片付ける」ような気分になりながら食べる。

「野菜カレー」を食べ終わる頃には、ナンが冷めて固くなっている。
机にナンのくずをこぼしながら、冷めた「鶏ミンチカレー」を食べる。

食べ終えてレジに向かう。

料金を支払った後、「レシートください」と伝える。
店員の動きが止まる。
店員はもう一度レジのボタンを押す。
ぼくの精算分のレシートが、前の客のレシートを押し出しながら出て来る。

レシートを受け取り、「ごちそうさまでした」とつぶやいて店を出る。

2015年1月31日土曜日

「迫り来るもの」と勝負する日々

「持ち寄り食会」と名付けられた会は、まさに勝負だった。


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問題。

(1)お世話になっていた人から声をかけてもらった仕事。「ちょっと引き受けにくい」と思いながらも「今さら断れない」という気持ちの方が強く働いている。ここで引き受けるかどうか。

(2)用事で疲れきっていて、早く帰って何か甘いものでも食べたい。帰り道、ブックオフの10%引き券が財布に入っていることを思い出す。有効期限は2日後。寄って帰ろうかという考えがよぎる。ここで帰るかどうか。

(3)誘ってもらった集まりに魅力を感じていて、とても行きたいけれど、用事でフル参加できない。夜から行けば顔は出せる。でも途中から行っても自分としてどう居ていいか分からないし、無理をする感じが気にかかる。でも行けば何かあるかもしれない。ここで行くかどうか。

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前回書いたラーメン屋の話もそうだけど、日々、重たい内容から些細なことまで、こういった問題が目の前に次々とやってくる。

こういう問いに対する「自分にとっての答え」は、問いが発生した時にもう出ているのでは、と最近思い始めている。

選択の渦中にいるときは「出ているはずの答え」はなかなか見えない。「悪く思われたくない」とか、「一応」、「今のうちに」、「せっかくやし」、「もしかしたら」、「こうしておけば」、そういう考えが強烈な力をもって自分に迫ってくる。

「出ているはずの答え」に到達できるかどうかは、「迫り来るもの」との勝負にかかっているのではないか。

残念ながら「迫り来るもの」たちに負けた場合、自分はそこには居ない。自分の居どころから外れた理屈や、見かけとしては奇麗で分かりやすい動機が残る。一見これは他人に理解されやすいけど、実際には自分も周囲も満足しない。もしくは、満足したように取り繕うことにエネルギーが注がれる。

見事「迫り来るもの」たちに勝てた場合、自分としてそこに居ることができる。見栄えが悪かったり一貫性がないこともあるけど、今自分から見えている景色については、かろうじて何か言うことができる。そこからスタートして他人とやりとりができる。

こんなことを考えていると、世に「勝ち組」「負け組」と言う場合の「勝負」は、本当の勝負ではないという気がしてくる。ただ、淡々と自分の中に「勝ち戦」と「負け戦」が積み重なっていく。これが本当の勝負なのではないか。

最初に書いた3つについては、勝ったと思う。なんだかこう書くとかっこよすぎる感じがして気持ち悪いので、ちょっと勇気がいるけど今度は負け戦のことも書いてみようかなと思う。

追記。
冒頭3つめの勝負については、やっぱり行きたかったので一概には「勝った」と言いにくい。トータルでは「負けた」感じもする。。

2015年1月28日水曜日

動機があって、勝負を重ねることで到達したラーメン屋

店内のメニューもおもしろかった。


四条河原町から叡山電鉄の修学院駅まで歩いた。
けっこう疲れた。

なぜわざわざそんなことをしたかと言えば、とある事情で「出町柳界隈に住もうか」と考え始めているから。ネットで賃貸やシェアハウスの情報を見ていても全然ピンと来ないので、とりあえず近辺を歩いてみることにした。

とはいえ今の段階では住まない可能性の方が高いので、必死に物件は探さない。「出町柳界隈から北に向かう」「その都度気が向くことをする」「明日の朝の仕事に間に合うよう帰る」ことだけ決めた。「◯◯駅付近を集中的に見る」とか、「何時にどこでお昼を食べる」とか、「何時にバスで帰る」とかは決めない。「下宿、入居希望者募集」とかいう張り紙でも見つけたらラッキーかな、というくらいの気持ち。

今日体験したことをすごく書きたくなって、どうして書きたいんだろうと考えていたら気がついた。去年からずっとおもしろがっている、寄ってたかって本を読む講読ゼミと似ている。あと、上限額を決めて各自が食べたい物「だけ」を持ち寄って開催する「持ち寄り食会」(友人の大谷さんのブログ)にも。それから、自然に囲まれた徳島の山奥で、自分たちで過ごし方を決める3泊4日「上勝"少年"探偵団」でやった沢登りの感じとも。

スタート(動機)だけ決まっていて、ゴール(目標)は決めない。そして「その都度自分が見えているもの、自分の状態をできるだけ、そのまま差し出す」という部分において妥協しない。瞬間・瞬間の勝負が積み重なり、結果として、終わった頃には思いもよらない場所に到達している。

こんなにおもしろいことはない。

きょうは到達した「ラーメン屋の時間」がなんだか嬉しかったので、ちょっと長くなったけれど書き残しておく。

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歩き始めてしばらくしてから、ラーメン屋に入った。おなかも空いてきていて、冷えた身体を暖めたかったのでちょうどよかった。

店内には欧米系の旅行者夫婦らしき2人組と、ほか数人。ぼくは出入り口近くのテーブル席に座った。ほどなく、常連らしきサンダルのおっちゃんが入店。するとちょうど会計を終えた欧米系の男性がサンダルのおっちゃんに「hajimemashite(はじめまして)」と話しかけた。おっちゃんは何か言葉を返したようだけど、欧米系の彼は自分の「はじめまして」が伝わったのか不安なのか、ぼくの方を見た。ぼくが「大丈夫、合ってる」みたいなニュアンス(ほぼ日本語)で返すと、彼は「日本語は発音が難しい」みたいなことを英語で言いながらぼくとおっちゃんの席のそばに来た。

サンダルのおっちゃんはすごくフレンドリーで、「おれは外人が話してるのをカセットに録音して聞いて、外国語を勉強した」「(欧米の彼に)この腕時計やるわ!おんなじモデルぎょうさん持ってるから」とか、次々に喋るんだけれど全部日本語なので、欧米の彼がぽかーんとした表情でまたぼくの方を見る。

「これは『訳して』ということか…」と思って、文法は無視してどうにかこうにか訳してみると、何となく伝わったらしい。なんだか通訳になれた気分がして嬉しくなり、「どこから来たの?観光?」と欧米の彼に聞いてみると、いろいろ教えてくれた。

2人はオーストラリアから来ていて、来日は7年ぶりだということ。前回京都に来たときに出会った「イシダさん」という方にふたたび会いにきたこと。「イシダさん」は今は病気で入院していて、その病院にさっき行ったが2日前に退院していたことがわかり、会えていないこと。そして自宅の住所は分からないこと。

彼がカバンから出してくれた7年前の「イシダさん」とのツーショット写真を見ながら「入院先知ってるんやったら自宅も聞けるんちゃう」「会えるといいなあ」みたいなことを考えたけど、英語が瞬時に出てこなかった。

すると彼は「この辺に住んでるの?」とぼくに聞いてきたので「いや、京都やけど別の街に住んでいて、今日はこの辺を散歩してる」みたいなことを返した。彼がぼくの名前を聞いてくれたので伝えると、向こうも名前を教えてくれた。そのあと、2人は先に店を出て行った。


見るからに「旅行者」なのはあの2人だけど、ぼくも旅行者の気分だった。初めて来る土地の、初めて入るお店で、初めて会った人と、慣れない言語でやりとりして、何だか分かち合えた感じがしたのが嬉しかった。

そのあと、コンビニや書店やスーパーに立ち寄ったりしながら修学院までぷらぷらと歩き、雪も強くなってきて身体も冷えきったので帰ることにした。

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結果、(やっぱり)「下宿、入居者募集」とかいう張り紙は見当たらなかった。でもそれは大した問題ではない。なんだかもう、ラーメン屋の一幕でけっこう満たされていた。


実はラーメン屋の前に、イスラエル料理屋(ぼくは初めて見たので珍しかった)と行列のできているトンカツ屋も見つけて気になっていた。入るか迷ったけど、見つけた時はそう空腹でもなく、温かいものが食べたかったのでスルーした。「どこにお店があるか分からないので、このあたりで食べておこう」とか考えていたら、そもそもあのラーメン屋に行くこともなかった。


珍しさと、行列と、先の見えない不安に負けていたら、きっとぼくは今日旅行者の気分を味わえていない。

2014年12月13日土曜日

ひと仕事を終えて帰ってきた。

ひと仕事を終えて帰ってきた。向かう道中で「こうなるのではないか」「こう言われるのではないか」みたいに考えていた風景はだいたいが幻想だった。万事うまくいったかどうかはわからないけど、状況が変わった感じはある。

夏に徳島で沢登りをした時の感覚を思い出している。足を岩のくぼみにかけて、手を置く場所を決めて、伸ばして、掴んで、を繰り返す。たまに流れの急な箇所に入るときは、滑りやすさを気にしながら、ぐっと力を入れてふんばる。大きい平らな岩を見つけたら、そこで休憩する。また登る。

手をかけてみないと、そこの岩の感触はわからない。

しかしまあ疲れた。もうこんなに疲れるのはしんどいので、平らな岩場に座り込みたくもなる。いっそ沢から離れて、舗装された歩道に行ってしまおうかという気にもなる。かといって歩道を辿って到達したい場所があるわけではないので、しばらく歩いたらまた手応えを求めて沢に戻りたくなるような気もする。

平らな岩場は、まだちょっと先だと思う。
はやく休憩したい。