この間の日曜日、円坐に参加した。けれど直前まで「体が疲れているから家で寝てようか」「いや、自分が借りている東山の和室でやるなら行ったほうがよいのでは」といった具合に行くかどうか自体を迷っていた。その前日ゼミに参加して自分の中のモードが変わった感じがあって、その状態になるとすんなり「行こう」という風になった。おもしろい体験をしたな、と思っている。
*円坐については、小林けんじさんのブログに詳しく書かれています。
「かけた労力分だけちゃんと帰ってくる」とか「この選択にはこういう効果や意味がある」とかいう考え方を、最近ぼくは「意味の世界の論理」と勝手に呼んでいる。もちろん世間のほとんどの物事はこの論理の上に乗っかって成立していて、日夜その論理によって物事が決まったり動いたり生み出されたりしている。円坐に行くかどうか迷っていた僕は「意味の世界の論理」に絡まっていた。
ぼくが日曜日に体験したのはこの論理の外側にあるもので、それが何かと言われると説明がつかないのだけれど、とにかく「意味の世界の外」だとは言える。「意味の世界の論理」から外れた時に駆動した何かがある。
ゼミで読んでいる『無縁・公界・楽』(網野善彦)は、日本中世の時代に息づいていた「無縁」の原理について書かれている本なのだけれど、網野善彦は「これでもか」というくらい判物や掟書といった書物を取り上げる。現代の感覚からすると掴みにくい「無縁」の世界を、現代の論理から逆転する形で描き出していく様子は本当に鮮やかで、こんな文章表現が可能なのかとひっくり返りそうになる。
今という時代は、江戸時代から続いてきた「普通の常識」が通用しなくなってきている「転換点」だと網野氏はいう。だとすれば、後の時代に生きる人たちは今の時代と全く違う常識で暮らしているのかもしれない。そして、今の僕たちの暮らしの「常識」は理解しがたいものとして映るのかもしれない。ちょうど僕たちが「無縁の原理」をすんなりと理解できず、網野義彦の視界を借りながら、どうにかこうにか読み解こうとしているように。
後の時代に生きる人は「意味の世界の外」に暮らしているんではなかろうかと空想している。根拠はないけれど。
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