「言葉の表出 冬合宿2016」が終わった。
一夜明けて今日出勤して気がついたのは、ものすごい磁場というか重力が働いていた場所にいたんだなという感じだった。それくらいの重力がなければ書けなかっただろうし、それがあったから書けたような気がする。
職場で働いている重力はぜんぜん性質の違うもので、どちらが良いとか悪いとかいうことではなく、ぜんぜん違う。だから職場の重力の中にずっといるとその重力に合った筋肉が発達していく感じがして、昨日までの合宿で働いていた重力に合った、つまり書くことに関する筋力はちょっと鈍っていた感じがする。
なので何かきっかけがないと書くことができなかった。書く重力にいちど集中的に慣らしていって、ようやく書けたのだという感じがする。それには今の僕には2泊3日くらいは必要だったように思う。
何かを書かないといけない、というわけでもないし、何かを書きたくてたまらない、というわけでもない。なので、書く重力の外にずっといると何も書かない、という状態が続いていくように思う。
けれどやっぱり書くことはおもしろいし、それをちゃんと読んでくれる人がいるということは嬉しいし、そうするとまた書こうと思う。そういうことがとてもよくわかった。
上手い文章を書くとか、受ける文章を書くとか、そういうことから離れて「ただ書く」ということは難しい。気がついたら「ただ書く」ということすらも対象化して、「ただ書く」ということを「上手くやろうとする」自分がいる。
けれど、上手くやろうとするとかそれ以前に、どうしようもなく文章ににじみ出しまうその人の何かみたいなものがある、ということもわかった。そういう風に思えたら、これからも書いていけるような気がした。
またきっと「うまく書けない」とか「書かなきゃいけないわけじゃないけど、書けない」とか、同じことをぐだぐだと言うことがあるのだろうと思うけれど、でもまた書いていけそうだ。
2016年12月26日月曜日
『このブログについて。』(「言葉の表出 冬合宿2016」で書いたもの)
「言葉の表出 冬合宿2016」を終えました。
合宿で書いた文章を、公開しようと思います。
ほんとうに楽しかったし、書いたものをここで公開しようと思えることが嬉しいです。
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自分のブログについて。
2年前に開設した、自分のブログのことを考えている。これはもう7ヶ月更新をしていなくて、その間に実はもうひとつ別のブログを匿名で作って、しばらくそっちの方を更新していた。
もとのブログは実名を冠して始めたのだけれど、途中から実名を出すことが少しはばかられるようになって、ブログのタイトルを変え、プロフィールを変え、ついに更新しなくなってしまっていた。
書き始めの頃は、所属や肩書きがいちど白紙になったときだった。だから、個人の名前で何かやるということへの憧れなんかも手伝って、どんどん書いた。何か特別なことはできないけれど、文章を書くということはやれる気がしたし、ただただ楽しく、ずっと書いていられるような気がしていた。
いま、ちょっと状況が変わっていて、職場の人に実名検索されたらちょっと嫌だなとか、職場の人に読まれたらどう思われるんだろうなとか、そういうことを考え始めるようになってしまった。そういう状況から逃れるようにして、誰も僕を知らない場所で、何か書くということをしてみたくて、匿名で別のブログを書き始めたのだった。
そっちの新しいブログを開いてもう数ヶ月が経つと思うのだけれど、そっちはそっちで実の友人とかには誰にも教えていなくて、別に隠しているわけではないけれど、なんだかそれはそれでどうなのかな、とも思っている。
ずいぶん前に人と話していて、水泳のターンの話が出たことを思い出す。プールで方向転換するときのターン、あれはターンした直後はその勢いでずっと進んでいられるような気がするけれどしばらくしたらその勢いは失われて、自分でバタ足するなり、手で掻くなりして進まないといけない。
もとのブログを書き始めた頃はほんとうにそのターン直後だったのだと思うし、しばらくその勢いで進んでいられたのだと思う。いまはもうターンしてだいぶ壁からは離れてしまった感じがある。なので、「僕はあの壁からターンしたんだ」みたいな言い回しはもう使えない感じがするし、言いやすいからそういうことを今でもたまに言うのだけれど、そう言った瞬間に自分の中にあるテンプレートを話しているような感じもして、つまんないなと思ってしまう。そしてこういうことを、以前も書いたじゃないかと思って、またかよ、と自分で思う。
この記事を書き始めようと思ったのは、ブログ「ていれとつくろい」の最後の記事を改めて読んだからだった。「区切りをつけたくて」書かれたという最後の記事を読んで、ああそうか、僕もブログをいったん閉じれば、何かわかるのかもしれない。そんなことを考えた。
改めて自分が過去に書いたブログの記事、特に2年くらい前の記事を読み返してみると、そのころの自分の切迫した感じが強く出ている感じがする。けれど、やっぱり改めて読み返すと今の自分とはずいぶん距離があるよな、とも感じる。
僕はどこかで、「この頃の自分」をどこか「あるべき姿」と置いてものごとを見ている節があったのかもしれない。「この頃の自分」みたいに書けない、人と何かができない、みたいな気分に取り憑かれて、身動きが取りにくくなっている部分があったのかもしれない。
以前、「あの人みたいになりたい、なるべきだ」という気持ちにどっぷりとはまってそこから抜け出せず、自分とのギャップに苦しんだことがあったのだけれど、まさか自分がその対象になるとは思ってもみなかった。
と、書いてみたけれどこれまでにもこういうことはよくあったことだ。中学校時代にあんなに楽しかった部活が高校に行ったら面白くない。大学1年生の頃あんなにおもしろかったサークル活動が2年生になったらそうでもない。同じようなことは、これまでにもちょくちょく起こっていた。その都度、過去の自分みたいになれない、という気持ちに引っかかって、その時好き勝手に振る舞えなかったような気がする。
今回もそういうことだったのかもしれない。自分のブログを開くと、かつての自分の記事から、「これでいいのか、お前は」と言われているような感じがしてしまう。だから更新しにくかったのだと思う。「書かれたものはその人の死体だ」というのは大谷さんの言葉だけれど、ずっと僕は自分の死体から語りかけられ続けていた。別の媒体ならまだしも、かつての自分の死体が累々と積み重なっているような場所を覗き込むたびに、目が合ってしまう。そのたびに、ちょっと一瞬躊躇するのだろうと思う。ページを開けば「関連記事」として過去の記事がランダムに表示されるので、どうしても目に入ってくる。
だから、同じ媒体で何かを書こうとすると、そっちの力に引っ張られて「この頃みたいに書けないといけない」という気分が先に立って、今あるものが霞んでしまっていたような気がする。別のブログを作った時はそんなことは言語化できなかったけれど、今になるとそういうことなのだろうと思う。言葉の避難場所をつくったのだと思う。
だから今のブログをどうしよう、ということはちょっとすぐに結論は出せない。けれど、そうまでして引っ張られるのならいっそ違う場所で書き続けてもいいし、引っ張られていることを自覚できれば、気にせず書けるという気もする。とりあえず、「関連記事」のガジェットは外してみようかと思っている。
2016年12月25日日曜日
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