2015年5月26日火曜日

針が振り切れていて書けない。


文章が書けない。

最近考えている「無能」であるということについて書きたくなったけれど、なんだかよく分からなくなってしまって、3回くらい書き直した。もう4回目だ。疲れてきた。それでも何かを書こうとしているのは感じていて、その源泉を探り当てるのにとても苦労している。

この間東山の和室に大谷さんと一緒に二泊してきた。特に何をするでもなく、お腹が空いたらイオンやフレスコで食事を調達して、眠たくなったら寝て、目が覚めたら話をして、外の空気に当たりたくて河原を歩いて、銭湯に行って散歩して、夜中に酒を飲んだ。人と合流して話もした。

あの和室に長時間居るのは「修行みたいだ」と冗談半分で言っていたけれど実際にそれに近いものがある感じがしていて、あらゆるものの解像度が高くなってくる。散歩に出て「風景が変わること」が娯楽に思えてくる。飲み物を買うためにコンビニに行って「自分が何を飲みたいか」が分からないことが引っかかって、すごく選ぶのに時間がかかる。自分の発した言葉が空間にずーんと残る感じがある。

こうして書いていて、どうして書けないのかが分かったような気がする。和室から出てから、身に起こっていることの処理が追いついていない。物や予定や意味が極度に「無い」状態に居続けて、感度が上がっている。その状態のまま外界からの刺激だけが膨大に増えているので、キャッチしきれない。地震計の針が振り切れてしまっている。

前から、この和室は『ドラゴンボール』の「精神と時の部屋」みたいな感じがするなと思っていた。あそこは外界と時間の流れ方が違っていて、生涯で2日間しか入っていられないらしい。「精神と時の部屋」から出てきた悟空と悟飯を見たベジータが「あいつら、ごく自然にあの状態(スーパーサイヤ人)でいやがる…」と驚いた場面が印象的なんだけれど、あんな感じで、決して派手なことは起こらないけれど淡々と、平熱のまま戦えるようになる変化が起こっているような気がする。

ドラゴンボールは小さい頃すごく好きで、何かつながるものがある感じがして嬉しくて、書きたくなってしまった。

2015年5月20日水曜日

予定を入れないでおくという企み

ふらっと寄った河原がすごく気持ちよかったりする。

しばらくずっとブログが書けなかった。書く時間はあって、書こうかとも思ったけれど、なかなか書き始めることがなかった。今日なぜかまた書いている。

職場で「夏休みはどうするんですか?」と聞かれた。今勤めている職場は夏休みが長くて、8月に10日間まとまった休みが取れる。ぼくは「いやあ、何も決めていないです」と答えた。周りにはキャンプに行く人もいたし、「まだ決めてなくて」という人もいたけれど、皆何かしら予定を入れる雰囲気だった。

帰りの電車でふと、この長期休みに何一つ予定を入れずにいたらどうなるだろうと想像した。友だちからの誘いも、何かのイベントごとも、意思を持って確定させないでおく。本当にその日を迎えるまでに、まるまる何も予定が入っていなかったらすごい感じだ。もし実現できたら、行き先は決めずにリュックだけ背負って「10日後には帰る」とか家族に伝えて家を出てみたら面白そうだ。

そう言いつつ、あっさり予定を入れているかもしれない。先のことはわからない。

2015年5月13日水曜日

「意味の世界の外」に暮らす人たち



この間の日曜日、円坐に参加した。けれど直前まで「体が疲れているから家で寝てようか」「いや、自分が借りている東山の和室でやるなら行ったほうがよいのでは」といった具合に行くかどうか自体を迷っていた。その前日ゼミに参加して自分の中のモードが変わった感じがあって、その状態になるとすんなり「行こう」という風になった。おもしろい体験をしたな、と思っている。

 *円坐については、小林けんじさんのブログに詳しく書かれています。

「かけた労力分だけちゃんと帰ってくる」とか「この選択にはこういう効果や意味がある」とかいう考え方を、最近ぼくは「意味の世界の論理」と勝手に呼んでいる。もちろん世間のほとんどの物事はこの論理の上に乗っかって成立していて、日夜その論理によって物事が決まったり動いたり生み出されたりしている。円坐に行くかどうか迷っていた僕は「意味の世界の論理」に絡まっていた。

ぼくが日曜日に体験したのはこの論理の外側にあるもので、それが何かと言われると説明がつかないのだけれど、とにかく「意味の世界の外」だとは言える。「意味の世界の論理」から外れた時に駆動した何かがある。

ゼミで読んでいる『無縁・公界・楽』(網野善彦)は、日本中世の時代に息づいていた「無縁」の原理について書かれている本なのだけれど、網野善彦は「これでもか」というくらい判物や掟書といった書物を取り上げる。現代の感覚からすると掴みにくい「無縁」の世界を、現代の論理から逆転する形で描き出していく様子は本当に鮮やかで、こんな文章表現が可能なのかとひっくり返りそうになる。

今という時代は、江戸時代から続いてきた「普通の常識」が通用しなくなってきている「転換点」だと網野氏はいう。だとすれば、後の時代に生きる人たちは今の時代と全く違う常識で暮らしているのかもしれない。そして、今の僕たちの暮らしの「常識」は理解しがたいものとして映るのかもしれない。ちょうど僕たちが「無縁の原理」をすんなりと理解できず、網野義彦の視界を借りながら、どうにかこうにか読み解こうとしているように。

後の時代に生きる人は「意味の世界の外」に暮らしているんではなかろうかと空想している。根拠はないけれど。


2015年5月12日火曜日

雑記 5/12


今日は仕事が早く終わったので早く帰ってきた。

左肩がなぜか痛い。少しでも動かすと違和感があって、腕を回したり上げたりすると痛む。

どうやら台風が近づいてきているようで、文字通り雲行きが怪しい。自宅近くの駅に着くと空が不気味に赤くて、ああ、このことをブログに書こうと思いながら改札を抜ける。駅前でiPhoneを取り出して空にレンズを向けたところで、駅員に呼び止められる。どうやら定期券を取り忘れていたらしい。落ち着かない気分でシャッターを切る。

こういうとりとめもない日記のような文章を一体誰が面白がって読むのだろうという気分になるけれど、一度こうやって書いてみると書き始められるような気がしている。「昼食におにぎりを作って職場に持参できる」というのが自分の調子を測るバロメーターのような気がしていて、ブログも似ている。少なくとも、今、あてどなく書き連ねていられる。

ある企画のために、つげ義春『無能の人』を買い集めている。先日Amazonで7冊注文して、今日はブックオフで2冊買った。すでにAmazon注文分は3冊届いたので、今部屋には5冊の『無能の人』が積まれている。毎日淡々と『無能の人』が届き、じわじわと冊数を増して行く部屋を想像すると可笑しい。

2015年5月6日水曜日

呼吸をするように

ブログを1本書いてみると、本を手に取る気になった。
早川義夫『生きがいは愛しあうことだけ』を読む。

すーっと文章が入ってくる。
ああ、そうか。と思う。

呼吸をするのと同じだ。一度出しきるから次が吸えるのだ。
「これを言わなきゃいけない」「これを書かなきゃいけない」
そう思うから出てこないのだ。

外からやってきた質問に答えようとしているうちは無理だ。
そのまんま、できるだけそのままのものを出そうとしてみて、出してみて、
ようやく呼吸ができるのだ。

思い出せてよかった。


雑記

おととい、昼間から大学の友人と飲んだ。10人とかそういう規模の飲み会が最近どうも苦手だったけれど、話したい人と話せたという感じがしたのは良かった。話の中身のほとんどが仕事と結婚と出産だった。梅田の茶屋町近辺だけで4件もはしごしてしまい、千鳥足で帰った。

昨日は祖母と叔母姉妹の家を訪ねた。うちは近しい親戚がほとんど大阪市内に住んでおり、「田舎に帰る」という言葉を使わない。以前祖父母が住んでいたのは繁華街の端にある古い一軒家だった。昔電器店をやっていた名残か、古いスピーカーや木製の棚があちこちに置いてあり、家に入るとどこか時間を遡るような感覚になることができた。数年前に祖父が亡くなってからは、叔母姉妹が祖母と大阪市内のマンションに同居している。建物も設備もぼくの自宅より新しいので、「遡る」感じはない。オートロックの玄関と奇麗で大きな洗面台にいつも戸惑う。祖父の仏壇に手を合わせてきた。お鈴の音は昔と変わらず、安心した。

今日は連日の食べ飲み過ぎで体調がおかしなことになっている。昼にうどんを食べたきり、寝たり起きたりしている。キリンジの『エイリアンズ』をずっと聴いている。同じ曲を短い期間に何度も聴き続けるというのはこれまでにもあって、そういう時はたいてい何かがひっかかっている。それが何かというのはよく分からない。いや、分かってはいるけれどまだ捉えきれていない。




憧れや執着というのはどこからやってくるのだろう。ゴールデンウィークに入る前はブログを毎日書き、本を読もうと思っていた。結局そのほとんどができなかった。できないならできないでいいと思っているけれど、できなかったという感じが残る。

「今しかできないこと」をする、という言い回しが横たわっている。今できていて、先々になるとできなくなること、という意味だろうか。でも未来そのものが分からないので、やっぱり分からない。ただ「今できないこと」なら分かる気がする。「しか」と言われたとたんに霞んでいく。

2015年5月2日土曜日

今日も天気がいい。


なんというか、適当な写真がなかった。

朝ご飯を食べようとキッチンに向かって、「今日は何食べたいかな」と自分に聞いているときは調子がいい。出勤する日はそういうモードが働きにくい。卵かけごはんか、目玉焼きサンドか、フレンチトーストか、普通のトーストか。今日は「食パンに切り込みを入れてパルミジャーノを挟んで焼く」というのを思いついた。美味しかった。その時やりたいと思ったことをその場でぱっとできるのがいい。

新しい仕事を始めてから、朝目覚めるかどうかの瀬戸際の時間に、仕事の情景がわーっと湧いてきて頭を通過していくのを何度も体験している。特に休みの日は顕著で、うとうとしながら仕事のことが浮かんでは消えていく。

「休みの日だから何か予定を入れないと」みたいなことが最近なくなった。回りくどいけれど、「何もない」からこそ起こることが必ずあると思えるようになったからだと思う。ゴールデンウィークも特に予定がなかったのだけれど、昨日から少しずつ予定が入り始めていて、そわそわする。「むこう120時間近くにわたって予定がない」ということに価値がある感じがするので、予定が入るとどんどんその時間の塊が分断されていく。