2015年7月18日土曜日

「現実」はどのように構成されるか

なんというか、いっこうに寝られる気配がなくてブログを書く。

最近、現実というものはどのように構成されるかということに関心があって

自分のどうしようもない居所をはっきりと、切実に外に出してみて
そのうえで現実というのは構成されてくるという気がしている。

それを妨げたり、しにくくなる要素というのは世の中にあふれていて

たとえば世の中の動きが気にかかっていて、
何か言いたい、言わねばという気分がふつふつとわいていて、
わかりやすい主張に流れてしまいたくなる感じがある。

でも何かを言い切るにはちょっと違うという感じもあって
言い切れるのであればいいのだけれども、
もし言い切れないとすれば、
たとえその言い切れなさの正体が何なのかがわからなくても、
その中でそこに留まれるかどうかというか
そこで現実の構成のされ方が変わってくるように思う。

自分がほんとうに直面しているものから目を逸らすとか、
逸らすとまで言わないにしても、
自分から離れたものに対して、自分が直面しているものを投影して
あたかも自分が直面しているものがなんとかなったかのように思えてしまう
そんな誘惑というか 解決策めいたものに飛びつく

そういうことをしないでいられるかどうか
ということではないか。

もちろん、自分から離れたことと考えるのはまちがっている、
自分にも関係の深いことだよ、という主張は正しいように思えるし
そうだなという気がする。

けれどそう考えたとして、では自分からなにか発信をするとか
動きを起こすというのは一段違う層にあるという気がしていて
自分にとってそこに段差があるとすれば、
その一段低いところに留まらざるを得ないというか
そこを一段飛ばしでジャンプしてしまうことで
スキップされてしまうなにか、
自分がほんとうに直面しているものが
視界に入らなくなってしまうようなことが起こるのではないか。

そんなことを考えている。

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