2015年7月14日火曜日

服装の研究(3)服と社会性

ほぼ日の記事「男たちよ、シャツの下に何を着る?」がおもしろい。

タイトル通り「男は仕事中に着るシャツの下に何を着ているのか」というアンケート結果をまとめたもので、糸井重里がこんなことを言っている。

服って、社会性と自己満足の接点だから。
自己満足・自己表現だけで服を着てるひとって
基本的に世の中にはいない。
その意味では、社会性の部分をどういうふうに
無視をしたり、受けとめたり、
跳ね返したりするかというところに
まさしくこの問題がある。
 

ここのところずっと自分にへばりついている感覚、というか、ずっとへばりついていると最近になって認識できてきた感覚みたいなものがあって、それは、できない時に「できない」と言えるかとか、黙っちゃおれんときに黙ったままでいないとか、特に魂がこもっていないのにそれらしいことを言おうとしていないかとか、そういうこと。

常にそういうものが一致しているかというとそうではなくて、相手の反応が怖くて聞こえのいい言い方をしてみたり、いい格好しようとして何か言おうとしたり、けっこうそういうことをやっている。そういうとき、ずーんと重たく、ああ、またやってしまったという感じが残る。いや、「重たい」かどうかはともかくとしても、そういう自分がちらついて見えるのがわかる。

こういうことを考えていると昔の体験を思い起こすことが多くて、例えば、小さい頃流行りのTVネタを知らなくて友だちに馬鹿にされて知ったかぶりするようになったこととか、ほんとうは早く辞めたかった習い事を辞めたいと言えずに上手いことサボりながら何年も続けちゃったこととか、特にやりたくもなかったけれどなんだか引き受けないといけない気がしてリーダーや代表をやって自分の居場所ができてしまったこととか。そしてそれらは、「なんとなくやれてしまっていた」という感覚としてある。

これに対して、前の仕事を辞めたことが「やれなかった」という感覚として思い出される。

どんなに先人の言葉を読んで自分を奮い立たせても、どれだけ似た悩みを持つ人たちと語り合って「自分だけじゃない」と勇気が湧いても、先進事例を見聞きして夢が膨らんでも、本を読んでやり方を工夫しても、朝から晩まで働いても、「やれなかった」という事実だけがある。「自分を何かに適合させる」ということの限界値に行き切ってしまった感がある。

「服と社会性」とか言っておきながら服のことを全然書いておらず、気がついたら「ぼくと社会性」の話になっているけれど仕方がない。ぼくは服がとても好きだとかそういうわけではなくて、いや、見たり選んだりするのは好きなんだけれども、こういうことを考えることの一部として、「服を選ぶ」とか「着る」とかいうことが位置している気がしている。このあたりについてはまた書くかもしれない。

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