2014年12月20日土曜日

名前がつかない


こういう本が出たのを知った。

最近よく考えている「所在のなさ」と
通ずる気がして、気になっている。
府立図書館に蔵書があるみたいなので、借りて読むかもしれない。

でもどうだろう、
一度読んでしまうと「自分はコミュニティ難民か」みたいに
カテゴライズする思考が動き出しそうな気がする。
読まないかもしれない。

以前は「NPOワーカーである」とか
「ファシリテーターである」という
アイデンティティを確固たるものにしようとして、
ずいぶんエネルギーを使ってきた。

今ぼくがアルバイトとして仕事している所はNPO法人だったり
NPOと関わりの深い現場だけれど、
若手NPOワーカーのコミュニティに顔を出したときに
以前感じていた「ホーム」感は今あまりなくて、
若干「アウェー」感すらある。

「ファシリテーター」という役割を負って
個人で仕事をすることもあるけど
積極的にその肩書きを名乗って仕事をしていく
フリーランスというわけでもない。

ましてや会社員ではないし、一方で失業者でもない。

複数のコミュニティに出入りしていたり
収入源も複数に分かれているので、
人は「ナウいですね〜」(古い)とか
「新しい働き方ですね!」とか言う。
あと「働く気あるのか」とも言われたな。

人は好きなことを言うのだけれど、
たぶんぼくの今の状態には名前がつかない。
名前がついた瞬間に、ある価値体系に乗っかる感じがするので
なんかちがうな、と思ってしまう。

2014年12月13日土曜日

ひと仕事を終えて帰ってきた。

ひと仕事を終えて帰ってきた。向かう道中で「こうなるのではないか」「こう言われるのではないか」みたいに考えていた風景はだいたいが幻想だった。万事うまくいったかどうかはわからないけど、状況が変わった感じはある。

夏に徳島で沢登りをした時の感覚を思い出している。足を岩のくぼみにかけて、手を置く場所を決めて、伸ばして、掴んで、を繰り返す。たまに流れの急な箇所に入るときは、滑りやすさを気にしながら、ぐっと力を入れてふんばる。大きい平らな岩を見つけたら、そこで休憩する。また登る。

手をかけてみないと、そこの岩の感触はわからない。

しかしまあ疲れた。もうこんなに疲れるのはしんどいので、平らな岩場に座り込みたくもなる。いっそ沢から離れて、舗装された歩道に行ってしまおうかという気にもなる。かといって歩道を辿って到達したい場所があるわけではないので、しばらく歩いたらまた手応えを求めて沢に戻りたくなるような気もする。

平らな岩場は、まだちょっと先だと思う。
はやく休憩したい。

2014年12月9日火曜日

体調が悪くて家にいる。

体調が悪くて家にいる。
入っていた予定をとりあえず変更して、生姜湯を作って飲んで、昼間から寝ていた。

自分にとって何か大きな決断をするとき、体調を崩しているような気がする。春頃もそうだった。最近はとある大きなことを決断したつもりになっていたけど、ちょっと待てよ、ほんとにいいのか、みたいに思い始めている。これも「もうちょっとよく考えなさい」という身体のサインなのか。いや、今回はただの風邪か。

この間とある人に自分の悩みごとについて相談に乗ってもらったとき、話を聞いてもらっている様子を15分間録音して、あとでそれを聞き直すというのをやった。
何かが劇的に変わる感じはなかったけど、自分の今の立ち位置を確認できる気がしていて、その後も考えが堂々巡りしそうな時は家で独り言を録音して聞き直したりしている。この話を友人にしたら、マニアックなことしてるね、と言われた。たしかに。

今日は横になっていてもすることがなくて、考え事も堂々巡りになりそうだったので、一人で録音して聞いてみた。

そしたら、びっくりするくらい自分の物言いがはっきりしていて驚いた。やろうと思う理由、やらないでおこうと思う理由。あんまりはっきりしているので、ひとりで笑ってしまった。

2014年11月25日火曜日

「困っている」ところから始める

「考え過ぎだよ」
「もっと気楽に考えたらいいのに」

不安や困りごとを人に伝えたとき、
たびたびこんな風に返される。

その時は「ああ、まぁそうなのかもな」と思う。
でも、少し時間が経つとまた「いや、ちょっと待てよ」と思う。
忘れかけてた不安が、もう一回ぞわわわーっと襲ってくることもある。

確かに相手からすると「過ぎ」ているのかもしれない。
相手にとってはそれは真実なので、否定できない。
でもそれは相手の基準や考えの及ぶ範囲から「過ぎ」ているだけで、
僕にとっては決して「過ぎ」てなんかいない。

自分の中に「ある」はずの困りごとや不安が、
いつの間にか相手のものになって、
「ない」ものになっていく感じがある。

困りごとや不安は、ないに越したことはないと思う。

けれど、今の自分の居る場所に「ある」のであれば、そのことは認識しておきたい。
ちゃんと「困っている」というところから始めたい。

2014年11月9日日曜日

4時間の過ごし方

この前、仕事の時間を4時間ほど早く間違えていて(遅刻じゃなくてよかった)
朝08:30に京都市内でぽっかり時間が空いてしまった。

「前から気になってた近くのカフェにでも行って、
11時くらいになったらCD屋か本屋に行って、その後お昼食べるか」
と思ってとりあえず歩き始めた。

でも、カフェの場所はうろ覚えでネットも使えないため場所が分からない。
(「iPhoneを出先で使わない」という実験中。)
そこで特に4時間の過ごし方の見通しは持たず、
その都度の思いつきで動いてみることにした。

コーヒーが飲みたい、かつトイレに行きたくなってきたので
セブンイレブンまで歩く。
座ってコーヒーが飲みたいので公園のベンチに行く。
日影に座っていて寒くなってきたので、そばの神社を歩く。
小腹が空いてきた(なぜか団子が食べたくなった)ので土産物屋を覗くも、
開店前なのでしばらくうろうろする。
歩き疲れたので、見つけた図書館に入る。
目にとまった本を読みふける。
近くに話題の食事処があったことを思い出して、行ってみる。
店の前に着いたが特に惹かれなかったのでまた歩く。
ここで団子屋を見つけるも、もう団子欲は収まっていたのでスルーする。
怪しげな古本屋に偶然通りかかり、前から読みたかった本を見つけたので買う。
買った本を読みたくなったので、
しばらく居座っていても何も言われない食事処を探して、
マクドナルドにたどり着く。
ぎりぎりまで買った本を読む。

結局、これで4時間が終わった。

「コーヒー飲みたい」
「トイレ行きたい」
「寒い」
「歩き疲れた、座りたい」
「本読む場所と時間がほしい」

みたいな、その都度浮かんできた感じに忠実に動いてみると
すごくおもしろかった。
あれが4時間だったような気がしない。
単に時間が長く感じたというよりも、
時間がぎゅーっと濃縮されて速く過ぎているような感じ。

気になってたカフェに行って、CD屋に行って…みたいな
最初に思いついた時間の使い方はしなかったけど、
別に達成されなくても全く問題のない思いつきだった。

むしろ、好きな環境でコーヒーを飲んでゆっくりできたし、
古本屋も見つけて、思いもよらず買った本はすごく面白かった。
1つ1つ気の向くほうへ動いていくと、
出会うべきものに出会った感じがして、全体としてすごく満足だった。

日頃もこういう感じで過ごせたら、何だかよさそうな感じがする。

「旅行したい」みたいな欲求は最近なかったけど、
見知らぬ土地でこんな風に過ごす旅は、きっと楽しいだろうと思う。

2014年10月7日火曜日

iPhoneについての実験

ここのところ、iPhoneを手放そうかどうしようか、と考えている。

iPhoneは3GSから使っていて、数年前からは4Sをずっと使い続けていた。5・5Sが出た時に「別に4Sでいいか」と思ったし、6・プラスが出た今もあんまり欲しいと思っていない(試しに店頭で触ってみたけど、「デカい」という感想くらいだった)。

初めてiPhoneを手にした時は、モノ自体を触るのも楽しいし、「持っていること」自体がひとつのステータスみたいな感覚もあって、それを味わえることが心地よかった。でも今はそんな感覚も薄れていて、むしろ毎月の通信料が高さが気にかかるようになってきた。手放そうかと思っている理由としては、これがいちばん大きい。

そんなことを考え始めて、少し前から「外出中、iPhoneをいつ使ってるか」を気にして生活するようにしてみた。すると暇つぶしに近いSNSの閲覧だったり、乗り換え検索だったり、必ずしも不可欠でもなかったり、ガラケーでも対応できそうな用途がほとんどだった。あと僕はたまにストリーミングで音楽を聞いたりするので、これが使えないくらいだったらまぁいいかなという気もするな…と思っていた。

でもいまいち実感が湧かなかったので、おとといあたりから3G通信を切ってみてWi-Fiだけで使ってみている(電話は使えるけどネットには接続できない。Wi-Fiが繋がれば使える。あと携帯メールも使えない)。この数日は自宅で仕事したり、のんびりしたりで家にいることが多かったので、まったく不自由は感じなかった。

でも今日、銀行に行こうとした時にMapが使えなくて、困った。

その銀行を利用するのは初めてで、自宅でなんとなく場所を調べてから自転車で家を出た。でも、どうやら場所を勘違いしていたようで、思っていた場所に銀行が見当たらない。いつもならここでGoogleMapを開くところだけど、ネットに繋がっていないので使えない。はてどうしたものかと思ってしばらくぐるぐる走り回ってみるけど、やっぱり見つからない。コンビニのお姉さんに聞いても頼りない返事。

で、もうすぐ窓口が閉まる…というタイミングで道行くお兄さん(財布と携帯だけを持って歩いていたので、近くに住んでいる人だと思った)に聞いてみると、まったく違う方面だと教えてもらえた。色々あったけど、とりあえず窓口が開いてる時間ギリギリに手続きはできた。




「いきなり道に迷った時とか、ネットにつなげないと不便だなぁ」とか書きそうになったけど、よく考えてみた。これって「ネットが使えなかった【から】困った、だから外でもネット使おう」と考えそうになるけど、単に「銀行の場所が分からなくて困った」ということなんじゃないか。

銀行の場所が分からないということなら、今日みたいに人に聞けばたどり着けるし、もっと言えば事前に調べれば直行できたかもしれない。でも、そもそも今日の場合は「直行できなかった」こと自体は別に悪いことではなかったし、結果として手続きもできた。あれ、結果としては別に困ってないのか。


「外でネットが使えなくなると困る場面はいつだろう」と考えていたけど、これは常にネットにつなげる状況にあることが前提になっていて、個々の困りごとを見えにくくしていたり、原因を「ネットがない」ことに導いていくような感じがある。


ちなみに今日ソフトバンクショップに行ったら、てっきり更新月は来月と思っていたら「来年の11月」だとわかった。

うーん、どうしようかな。来月くらいには解約しようと思ってたのに。
とりあえず実験はつづく。

2014年10月3日金曜日

部屋の片付け

最近、時間があれば部屋を片付けている。


先週くらいにふと思い立って本棚を整理したら、途中から楽しくなってしまって。
昔読んでた漫画とか、旅先で衝動買いしてしまったハードカバーとか、
「これ、別にいらないかも」と思い始めて、持っている本の半分くらいは手放せた。

これまで必要と思っていたり、持っている状態が当たり前だったものが
「特に必要ないやん」ってわかっていくのがおもしろい。

あと手放す本の山を見てると、「この漫画は惰性で新刊を買ったな」とか
「これ買ったときは疲れてて、買うことでストレス解消してたな」
みたいなことも思い出す。
とはいえ当時は必要だったのかもしれないし、
今だからそう思うのかもしれないけど。
なんせ、「少なくとも今の自分にはなくても困らないもの」がわかっていくのが楽しい。



で、何日か前には引き出しの中にずっと入っていて「いつか使うだろう」と
思っていたボールペンとかマーカーを処分した。
今までは「書けるっちゃ書けるし、今使ってるやつがインク切れた時のために
置いておこう」みたいに思ってたけど、
「書くものを探すためにこの引き出しを開けたことがないし、それが何年も続いてる」
と気がついて、使いたい文具以外はだいたい捨てた。

自分が把握できて、使えるものの量には上限がある気がする。
上限を越えなければ「ある」ということは感じられているのに、
越えてしまうと、実際は「ある」のに「ない」ような感覚になるというか。



今日は中学校〜高校時代にレンタルした音楽を焼いたMDとCD-Rを片付けた。
「これきっと聞かないだろうなぁ」と思うものもあったけど、
まだ未練というか残しておきたい感じがあったのて、
PCにデータで取り込んで、MDも何枚か残しておいた。



こうやって無くても困らないものを手放していくと
部屋にスペースができてきた。
これまでパンパンだったクローゼットの中にも空きができて、
よく着るシャツを潰さずに掛けられるようになった。
よかった。