2015年6月25日木曜日

渦が落ち着くまで待ちたい

とある幾つかのことを決めないといけなくて、
それを後回しにしていたことを思い出す。

とりあえずじっと座る。

別にいいんじゃない、こっちで。という感じがする。
でも「そうしよう」とならなくて、立ち止まる。
これは何だろう、と手に取ってみる。
しばらく眺めていると、ああそうかこういう感じかとわかる。

なんとなく整った気がして、動く。

 * * *

別になんということもない些細なことについて、
こんな風に考えてものごとを決めている時間がある。

コップの中をわーっと掻き混ぜて、渦が静まるのを待っていると
底面に書かれた文字が見える、みたいな。
自分が何もしないことで、なんとか見えるものがあるというか。

でも日常生活ではこういうことはあまりできなくて、
渦が静まっていないのにコップの底の文字を尋ねられて
「Aだと思います(たぶん)」みたいな見切り発車をしたり、
他の人の渦に巻き込まれてよけいに撹拌が進んで
文字が見える前に疲れ果ててしまったりする。

精神的・体力的に疲れていると、渦が落ち着くのを待てない。

下手をすると朝起きてもまだ渦は残ったままで、
こうなるともう機械的に排水してしまうとか、
コップの代わりに別の物を置いて、
一旦コップを見ないようにして気を紛らわせるとか、
そういうことをせざるを得なくなってくる。

これはこれで悪くはないけど、長続きする感じがしない。

 * * *

排水のための機械とか、コップの代わりに見るものとか、
そういうものについ頼ってしまうけどそれはそれで仕方ないかなと思う。

でもやっぱり渦が落ち着くまで待ちたい。

2015年6月20日土曜日

「困る」人

「僕」は、どこかそわそわした気分でいる。
じっとして居られなくなり、とりあえず歩き始める。

ふと横に目をやると、誰かがいる。
なんとなく気になって、歩いていき、話しかける。

その誰かはこう言う。
ああ、そうですか、そうなんですね、わかります。
こういうことでお困りなんですね。

「僕」は答える。
ああそうか、そうです、そうなんです。
ぼくはまさにそれで困っていた気がします。

誰かは言う。
ええ。さぞお困りだったでしょう。
こういう風に考えるといいですよ。
あなたにはこういうことが必要で、こうやってこうなるのがいいですよ。

ああ、ありがとうございます。
そうか、これをやればいいんだ。あれをやればこうなれるんだ。
少し元気になって、また歩く。

しばらくすると、どこか調子がおかしくなってくる。
あれ、こうしてるはずなのに。
まだ足りないのかなあ、次はこうしてみたらいいのかなあ。
こうすればこうなれるはずなのになあ。

少し引き返して、さっきの誰かをたずねる。
あのう、こういう風にしてみているんですけど、
なかなかこうならいんです。

すると誰かは言う。
そうですか、そうですか。ええ。
きっとまだああいうことが足りないんですよ。
わたしはこんな風にやってみましたよ。
そうだ、あっちのあの人はああいう風にやっているそうですよ。
ええ、きっとああすればこんな風になると思いますよ。

ううん、そうか。言われてみれば、そんな気がする。
そうだよな。うん、そのはずだ。そうしよう。
また歩く。

痛みを感じて立ち止まる。
かかとに、靴ずれができている。

2015年6月6日土曜日

京都を旅する

今日も平日と同じ時間に目が覚めた。けれど予定もないので二度寝して、10時頃から動き始めた。朝食を取って一通り部屋の掃除をしたあと、さてどうしようかと思う。ここ2ヶ月は布団を床に敷いて寝ているので、ベッドを処分しようと思っていた。けれど何だか気持ちが向かない。とりあえず、友人の結婚式の出欠ハガキを出しに近所のポストまで歩くことにした。ものの2分でポストへの投函を終える。目の前のコンビニに寄って雑誌を立ち読みして、カフェオレを買ってぶらぶら歩いた。

川沿いに来たところで、ふとpha氏のブログ記事「一人で意味もなくビジネスホテルに泊まるのが好きだ」を思い出した。この土日は予定が流れたので、ちょっとやってみたい。電車でふらっと行けそうな場所はどこだろうと想像しながら、住宅街を抜けて自宅に戻る。和歌山、姫路…色々想像するけれど「東山の和室でいいのでは」と思えてしまう。そうか。一泊するかどうかはともかく、なんとなく自宅にいたくない。家を出たいのだ。そう気がついたので、リュックにいつもの荷物と下着類、パソコン、充電器類だけ詰めて家を出る。気が向いたらどこかで一泊するかもしれない。3時間くらいで家に帰って来てもいい。

とりあえず最寄りの駅に向かって歩き出す。駅の真上に高速バス乗り場があることを、歩きながら思い出す。片道3時間くらいで行ける場所にバスが出ていれば、ふらっと乗ってみたい。そうだ、電車に乗って移動するのはなんだか気が向かなかったけど、バスならいいかもしれない。そんなことを考えていると、時刻表の前に着く。ほとんどのバスがすでに出発しているか、次の便まで3時間ほど待つ必要があった。唯一乗れそうなのは40分後の広島行きで、駅のwifiを使って所要時間を調べると、6時間。これは長すぎる。顔を上げると雨が降り出していた。傘もないので、今さら自宅に戻る気もしない。とりあえず、改札を抜けてホームの待合室に入る。京都方面であれば定期券範囲内なので、お金をかけずに移動できる。気が変わったら帰ってきたらいい。そう考えながら文庫本を開くと、ほどなく電車がやって来た。「これに乗れば景色が変わる」という期待のようなものが生まれたので乗ることにする。

通勤の場合はいつも特急に乗り換えるけれど、今日は急ぐ必要がない。準急列車に乗ったまま少し眠る。駅に到着し、改札を抜けて地上に出る。そう言えば近くのCDショップが改装されてカフェと一体になっていたので少し見てみたい。店内は1階がカフェ、地下がCD・本・雑貨屋になっていた。本の配列や、置いてある文具や、照明のどれもがおしゃれな感じだ。なんとなく店内をぶらつく。興味のあった本を見つけて手に取る。けれどレジには向かわない。特に欲しいものがないということは最初から分かっていたので、店を出る。とりあえずお昼を食べたいと思って歩き始める。なんとなくラーメンが食べたいような気がするけれど、スーパーで買出しして東山の和室で食べてもいい。通りを歩いていていると、服屋が次々と目に入る。街や店からは強い引力が働いていて、どんどん店に引き寄せられるような気がしてくる。僕はかろうじて、地下鉄東山駅そばにある和室の引力によってバランスを保って、店に入らないまま歩いている。特に今服が欲しいわけではない。

少し歩くとちょうどバスが停留所に来た。祇園方面に向かうバス。僕はドアが閉まる直前に飛び乗る。バスは走り始める。どこで降りるかは決めていない。さっきまで歩いていたのに、今は倍以上のスピードで走っている。「バスを待った」という感覚がないので、歩く延長でワープでもしているような気分になる。祇園まで行こうかどうか迷ったけれど、スピードが変わった楽しさを感じられて満足していた。バスの定期を提示して、四条京阪で降りる。鴨川沿いを歩こうと思ったけれど、川端通の東側に降りたので戻るのが面倒だ。とりあえず祇園の街に入る。夜の街の昼の姿はなんだか不思議だ。スナックやバーの看板が連なっているけれどネオンは灯いていない。空が青い。ほとんどの店が準備中か閉まっている。夜は多額のお金がここで動くはずなのに、その気配がない。誰も僕にお金を使えと要求しない。使おうとしても、使えない。ゴツい外車に乗ったスーツ姿の男性、修学旅行生の5人組、ジョギングする夫婦、外国人バックパッカー、着物体験姿の女性グループ。リュックを背負ったジーンズ姿の男。

祇園の街を徘徊して疲れたので、昼ごはんを食べることにする。めぼしい食事処もなく、やはりスーパーに寄って東山の和室で食べることにする。ごはんと、レトルトカレーとコロッケを買う。お腹を見たして2時間昼寝し、今これを書いている。みやこめっせに来たので、更新する。








2015年6月3日水曜日

余計なことをせずにノイズを除去できたら動ける。


大谷さんのブログ(【137】その人の行動原理。)を読んだ。
その中にこんな一文があった。
僕が行動原理というふうに言っているものは、何かに邪魔されない限りは基本的にその人はそのように行動するというもの。
何かに邪魔されない限りは。本当にその通りだなと思う。
なんだかブログに返答してもらったみたいで嬉しくなって、
ぼくもこの「行動原理」についてちょっと書いてみたい。

以前は、人は自分の意思によって行動するものと思っていた。
もっとこうなりたい。もっとこうあるべきだ。
そういう、自分の外にあるものに向かうエネルギーによって人は動くと思っていた。
もちろんそういう原理は実際にあって、
世の中の大抵のものはこの原理で動いていると思う。

けれど最近気がついたことがあって、
ぼくの場合はこの「もっとこうなりたい」とか「もっとこうあるべきだ」
という類いのものが、自分の行動原理を邪魔している。

学生時代、「こうすべき」に囚われずに「こうしたい」を基準に動きたい、
みたいなことを考えていた。
けれど、今ではこの考え方もしっくりこない。
そもそも「こうしたい」というのがあるかどうかすら怪しい。

「今のままで良いのだろうか」みたいに思うことも、前より少ない。
「良いかどうか」もよく分からない。

あるとすれば「今どうであるか」くらいのもので、そこをちゃんと見るしかない。
「今どうであるか」が見えれば、後はもう邪魔するものがなくなるのを待つしかない。

積極的にできることがあるとすれば
「こうあるべき」「こうありたい」というノイズを極力除去することくらいだ。
そういう方向に自分を促すものから距離を取るくらいのことしかできない。

余計なことをしなくていい。
ちゃんとそこに留まって、「こうあるべき」「こうありたい」というものが
すーっと引いた時に行動できるという気がする。

2015年6月2日火曜日

ぼくにとって「決断する」ということ

「コロッケを買って食べる」とかはすぐ決まる。
京阪淀駅前の肉屋のコロッケが美味しい。

ぼくは決断することが苦手だ。と、ずっと思っていた。

高校受験の志望校をなかなか決められなかった。最後の最後まで迷い、一度出した志望校を締切日の朝に変更した。

大学のゼミ選択もそうだった。締切が近づいても決めきれず、興味のあった2つのゼミの志望理由書を平行して書いた。大学図書館のパソコンの前で2通りの志望理由書を見ながらうんうん悩んで、締切1時間前になんとか提出した。

こういう例はほかにもたくさんある。他人からも「真面目に考える人」「よく悩む人」「長考する人」と言われる。

この間大谷さんに「ぱーちゃんは助走をつけないよね」と言われた。「勢いをつけて跳んじゃう」みたいなことをしないという意味らしい。

スーパーマリオとかの古いアクションゲームで例えると、目の前の崖の先に上下に動く板があって、ちょうど板が崖の縁にぴったり重なるタイミングですーっと歩いていくという感じ。板が自分より上にある時にジャンプしてそれに乗ろうとしたり、崖を飛び越えて先に進んだりしない。
空のコップの中のピンポン球みたいだ、という話にもなった。コップの中に水が満たされていって「もうこれ以上入らない」というところで水が溢れて、水と一緒にピンポン球もコップからこぼれる。満ちるまではじっと待つことしかできない。あとどのくらい待てば満ちるのかも自分には分からない。水が満ちれば、すっと動くことができる。満ちる瞬間と行動する瞬間の境界は曖昧で、満ちたと気づいた時には恐らくもう行動している。後になって、ああ、まだ満ちていなかったんだなと思う。

そう考えると「決断が苦手」というよりも「こういう行動の仕方しかできない」ということのような気がする。こういう行動をした結果、周囲とうまくいかなかったり自分が疲れたりすることがあると「苦手」だと認識するのだと思う。冒頭に書いた昔の話も、自分の満ちるタイミングと締切が合っていなかったのだと思う。

結論が出ない状態に留まるのはそれなりに体力がいることで、そういう時はずっとその件がぼくの中のどこかにある。さっさと決めてしまえば楽かもと思いながら、それができない。ということはまだ満ちていない。

「今後こうしていこう」とかいう決意などなく、今日も留まることしかできない。