2015年6月2日火曜日

ぼくにとって「決断する」ということ

「コロッケを買って食べる」とかはすぐ決まる。
京阪淀駅前の肉屋のコロッケが美味しい。

ぼくは決断することが苦手だ。と、ずっと思っていた。

高校受験の志望校をなかなか決められなかった。最後の最後まで迷い、一度出した志望校を締切日の朝に変更した。

大学のゼミ選択もそうだった。締切が近づいても決めきれず、興味のあった2つのゼミの志望理由書を平行して書いた。大学図書館のパソコンの前で2通りの志望理由書を見ながらうんうん悩んで、締切1時間前になんとか提出した。

こういう例はほかにもたくさんある。他人からも「真面目に考える人」「よく悩む人」「長考する人」と言われる。

この間大谷さんに「ぱーちゃんは助走をつけないよね」と言われた。「勢いをつけて跳んじゃう」みたいなことをしないという意味らしい。

スーパーマリオとかの古いアクションゲームで例えると、目の前の崖の先に上下に動く板があって、ちょうど板が崖の縁にぴったり重なるタイミングですーっと歩いていくという感じ。板が自分より上にある時にジャンプしてそれに乗ろうとしたり、崖を飛び越えて先に進んだりしない。
空のコップの中のピンポン球みたいだ、という話にもなった。コップの中に水が満たされていって「もうこれ以上入らない」というところで水が溢れて、水と一緒にピンポン球もコップからこぼれる。満ちるまではじっと待つことしかできない。あとどのくらい待てば満ちるのかも自分には分からない。水が満ちれば、すっと動くことができる。満ちる瞬間と行動する瞬間の境界は曖昧で、満ちたと気づいた時には恐らくもう行動している。後になって、ああ、まだ満ちていなかったんだなと思う。

そう考えると「決断が苦手」というよりも「こういう行動の仕方しかできない」ということのような気がする。こういう行動をした結果、周囲とうまくいかなかったり自分が疲れたりすることがあると「苦手」だと認識するのだと思う。冒頭に書いた昔の話も、自分の満ちるタイミングと締切が合っていなかったのだと思う。

結論が出ない状態に留まるのはそれなりに体力がいることで、そういう時はずっとその件がぼくの中のどこかにある。さっさと決めてしまえば楽かもと思いながら、それができない。ということはまだ満ちていない。

「今後こうしていこう」とかいう決意などなく、今日も留まることしかできない。

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