2015年12月30日水曜日

毎回同じ場所にやってくる

何度か書いたブログの下書きを消しては書き、消しては書きしている。このあと昼過ぎに大学の友人と会う予定で、それまでになにか書き留めておきたいという気分になっているのだと思う。今いる公園はとても気持ちがいいとか、最近家とはなにかを考えているとか、この間終わった吉本隆明を読むゼミのこととか、浮かびはするけれど文章にならない。文章になってもこういうことが書きたかったのだろうかと思ってやはり消してしまう。

ほうっておくとすぐに何者かになろうとしてしまう。隣の人と自分とを見比べて、ああなんて自分はできないんだとか、こうなるにはどうしたらいいんだろうとか、そういうことを考え始める。昔自分ができたことを思い返して、きっとあれが出来たのはああいう条件があったからだとか、じゃあ今度またできるようにするためにはこうしたらいいんだろうとか、そういうことをすぐに考え始める。

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読むゼミがこの間終わった。これを読んでいる期間はぼくはさっき書いたようなことの渦中にいた。渦中にいたということがわかって今それについて書いている。

ああまただ、と思う。その都度目の前に起こることに対して自分がどういう反応をしているかということでしか何かができない。本当ならもっとこうなのに、とかこうなればもっといいとか、そういうことに翻弄される動きの中にはなにもない。すぐにそのことを忘れて、その中に入っていこうとする。こういうことが自覚できたときはとても視界がクリアになる感覚と裏返しの孤独を感じる。

けれどこの孤独は妙なあかるさを伴う孤独だ。この感じがあって初めて、他人と一緒に居るとか何かをするということができるようになる気がする。またここか、というこの感じを得るときは毎回同じ場所にいるのだけれどその都度初めて来たような新鮮さと、そしてもう二度と来ないのではないかと思うような確かさがある。

うんざりしながら、気持ちがいい。

2015年12月22日火曜日

京都銭湯レポート(2)玉の湯



【玉の湯】

▪︎場所:地下鉄京都市役所前から徒歩5分くらい(京都市役所の裏)
地図等はこちら(公式サイト)から

▪︎定休日:日曜

▪︎営業時間:15時〜24時

▪︎番台
・オーナーご夫婦(若め)がいることが多い。

▪︎脱衣所
・おそらく、女性側の脱衣所は番台横に仕切りカーテンがあって番台からは見えにくくなっている。
・トイレは男女別で脱衣所直結。
・飲み物、タオル、下着まで売っている。
・ドライヤーは有料。

▪︎浴槽
・サウナあり。

▪︎客層
・お年寄りから若い人まで、いろいろ。

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柳湯が閉まっているときは、大体ここに来ます。

下着が売っていたり公式webサイトやTwitter・Facebookアカウントがあったりして、
初めての人にも優しい感じがします。

2015年12月21日月曜日

京都銭湯レポート(1)柳湯

最近銭湯に行く機会が格段に増えたので、京都(とくに京阪三条界隈)の銭湯をレポートしていきます。京都の銭湯に関する「見て楽しむ」系の気の利いた情報はこういうサイトがあるのでいいとして、「入浴する場所」としての基本的な情報を載せたいと思います。



【柳湯】

▪︎場所:三条京阪から徒歩5~10分くらい
地図等はこちらから

▪︎定休日:月曜、火曜

▪︎営業時間:16時〜24時

▪︎番台
・基本的におっちゃんが2人。
・おっちゃんはだいたい男湯側の脱衣所に座っている。
・おっちゃんの愛想がいい。

▪︎脱衣所
・男性側の脱衣所がオーナーさんの居住スペースとつながっていて、トイレを借りるときはそこを抜けないといけない。コタツとテレビがあって生活感満点の部屋を通り抜けるので、友達の実家にお邪魔している感がある。男性の脱衣所を通らないといけないので、女性は大変かも。
・ドライヤーが無料で使える。

▪︎浴槽
・水風呂を入れて4つ。
・サウナなし。

▪︎客層
・地域の人と思しき人が多め。お年寄り多め。
・たまに観光客っぽい若い人もいる。

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立地的な関係もあって、いちばんよく行っています。

脱衣所にはテレビや飲み物販売もなく、
電気風呂や日替わり湯、ジェットバスみたいなものもなく、
でもそういうのがシンプルで、「ただ、お風呂」という感じがしていいです。

近況

・ブログのタイトルをどうしようかと考えている。ずっと本名を冠して書いてきたんだけれど最近「これは本名では書きづらいな…」と思うこともあってちょっと窮屈だ。このブログを書き始めた頃、本名は明かさず始めようかとも思ったけど「何を恐れている、本名で勝負してなんぼだ」みたいに思っていた。最近は名前は看板みたいなもので、看板を架け替えることで書こうと思うことが書けるなら別にいいのではという気もしてきている。けれど適当なタイトルとかペンネーム的なものも思いつかない。

・以前は純粋にその行為自体が面白いと思っていて、最近それが「しないといけないこと」に見えてきていてちょっとしんどい。具体的にはゼミの本を読むとか、ブログを書くこととか。「あーしないといけないと思ってるな、別にできなくてもいいから気楽にやろう」とただ思えたらいいんだけど「しないといけないと思ってる状態はよくない」という風に思っているふしがある。「今も純粋におもしろいと思っていると思いたい」みたいに固執する感じがあるのだと思う。「自分はこれをやっていたらもう大丈夫だ」と思えた瞬間みたいなものが過去にあって、それにすがりたいんだけれどそうはいかない、ということを認めたくないのだろう。

・やっぱり東山の和室は立地がよい。徒歩5分かからずに大きめの図書館と公園に行けるし、10分くらいで鴨川にも銭湯にも24時間営業のスーパーにも行ける。イオンにも徒歩5分で行けて、こっちは夜9時に閉まるけど売ってる商品が安くて重宝する。改修していた京都会館が1月には「ロームシアター京都」としてすぐ近くにオープンする予定で、ここにはスタバと蔦屋書店が入る。うまくいけば図書館になかなか入らない新しい本とかもここで読めるし、コンビニも入るみたいで、なんだか都合が良すぎて笑える。都市的なインフラがこれでもかというくらい整っている。

・人に期待されるということは疲れる。自分で言うのもどうかと思うけれど、ぼくは子どもの頃から人の期待にうまく応えることで自分の立ち位置を保ってきた部分があって、今でもわりとうまいこと人の期待に応えることはしていると思う。けれど期待をかけられすぎたり無理に応えようとし始めたりすると一気にバランスがおかしくなることもわかっていて、そうならないように注意を払うのに疲れる。期待に応えた瞬間というのは気持ちがよかったりもするので、期待に応えることと応えないことの両方で自分の立ち位置を保つみたいなとても微妙な線のことをやっているような気がしている。

・ここまで書いたようなことは今日、銭湯に入る直前にむくむくと書きたくなっていて「これお風呂入ったら書く気がどっか行きそうだな…」と思っていたら案の定そうなった。夕食をとってだらだらとネットを見ながらどうしようもない気分になってきて、味噌汁を飲んで一息ついたら書き始めた。こうやって書くと一旦立ち止まるので、またなんとかやれそうな気がしてくる。

2015年12月12日土曜日

最近余裕がない(2)

前の記事の続き。

ギアが上がり続けているときはなんというかあまり記憶がない。時間が過ぎるのがすごく早く感じて、「もう2週間も経ったのか」とか思ったりする。けれどもさっき書いた「寄る辺なさ」とか「根拠の不確かさ」みたいなものは感じ取る余地がなくて、そういう場所が別のもので塗り込められていて、そういう不確かなものが見えない。

不確かなものが見えないというのはあながち悪いことばかりでもなくて、不確かさからくる不安みたいなものは感じなくて済むし、外からの刺激もあって面白かったりする。だから「こういうのもありか」とか思うのだと思う。

でもやっぱり本当におもしろいことというのは、そういうどうしようもない寄る辺なさとか不確かさをひりひりと感じながらそれでも何かしている時なんだろうなと考えたりする。

「やりたいこととかあるんですか」と聞かれると最近いつも困っていて、結婚しますとか起業しますとかこういう業種の仕事をしたいんですとか、そういうことを言える気が全然しないんだけれど、「寄る辺なさに浸ろうと思います」なら言える気がする。でも言ってもおそらくあまり理解されないんだろうなと思う。

寄る辺がないので、その状態で何が起こるとか何をするとかそういうことが言えない。けれど寄る辺がないことで起こる何かみたいなのはほぼ確実といっていいほどあって、それはちゃんと寄る辺がなくならないと起こらないような気がしている。

2015年12月11日金曜日

最近余裕がない(1)

最近余裕がない。

例えば朝がつらい。寝ても全然寝た感じがしなくて、アラームの音で目が覚めてもできるだけ横になっていたくて家を出る20分前になんとか身体を起こして支度したりしている。

あとは帰ってくるのが遅い。前にやっていた仕事と比べれば早いほうなんだけれど、今のぼくの感じからすると遅い。前はこの時間からもうひと仕事やっていたとかちょっと考えられない。

外食も多くなった。少し前はまだちょっと余裕があって、「おっ、今外食したくなってるということはこれによって何かを解消しようとしてるな」とか俯瞰して自分を見れてた感じがするんだけれど、最近は「もうだめだー」みたいな感じでふらふらと店に入ったりしてしまう。

「余裕がない」というタイトルで何か書けるかもという気になっていて、「余裕がなくてつらい」ということももちろんあるんだけれど、その反面「つらさ」とはまた違う感じも混じっているぞということに薄々と気がつき始めている。

それは何というか、身体は疲れていてどう考えても移動中のバスに乗っている自分の目は死んでいたりするんだけれども、そういう状態がある一定期間続くとその状態が普通になっていて、それでもなんとかなっているということが普通になってくる。

これはさっき書いた外食のあたりに顕著に表れていて、「外食によって何かを補填しようとしている」ということを自覚的に面白がれている状態と、そうでない状態というのがずいぶん違う気がする。前者の感じだとあくまでベースは自分のギアの段階にあって、必要に応じてギアを上げて走って、必要がなければまた落とせている感じだ。けれど後者の状態だとギアが上がった状態でずっと走り続けていて、そのまま食事したり寝たり起きたり仕事をしたりしている。エンジンを切ったつもりでも、そのままの勢いですーっと移動し続けている。

この後者の状態はある一定期間を越えると妙に身体に定着する感じがあって、例えば肩の重い感じがずーんと常にあるのが当たり前な気がしてきたりする。こうなると「しんどいから休みたい」とかそういうのともちょっと違ってきていて「まあこういうのもありか」という気分に不思議となってくる。

そうでない状態、ギアを自分で上げたり落としたりできているときはもうちょっと違う感じで、得体の知れない寄る辺なさとか根拠の不確かさみたいなものがふと押し寄せてどうしようもなく不安になったりしてそこら辺を徘徊したりしている。こういう時はもうどうしていいかわからなかったりするし、はたから見るとちょっと危ない感じがするんだろうけれど何か問題があるという感じはしなくて、自分の中の時間がただ流れているという感じがする。