2015年4月14日火曜日

「あてどない日常」に留まるには(後半)

あてどない散歩の最中に撮った写真。
(前編)の続き。

確固たるストーリーが崩壊した中でどう生きていけばいいか。
という話は、社会学などの方面では以前から議論されているみたいだ。

僕はその議論にはあまり詳しくない。

けれど最近ヒントのようなものは掴みつつあって、それは
「ここに窪みがあるから安心して足をかけられる」とか
「水の流れが急で不安だから左側からまわる」とか
「疲れてきてこのまま進むのは難しいから一旦岩場で休憩する」とか
そういう、ごく細かいレベルの具体的な確かさを手だてに
進んでいくことではないかと思う。

「何分後にはせめてあの岩場までは到達していたほうが云々」
「この靴を履いたほうがより効率的に云々」
「そもそも沢登りをする意義とは云々」
などと言う人が世の中にはたくさんいる。

こうした声にすぐに光明を見いだしたくなるので、
その声に全面的に倒れ込まないでいられるかが肝ではないか。
このあたりは以前書いた「僕の中の他人が言う」という言葉が役に立つ感じがする。

現代はあらゆることが相対化される「あてどない」時代だとすれば、
この「あてどなさ」を逆手に取った上で自分の足場を確保できたら、
「あてどない」ことに留まっていられるのではないか。

そして、「逆手に取る」ために必要なのは
恐らく時間的・空間的な空白や「無い」状態なのだと思う。
このあたりはまだうまく言語化できないので、
今後も引き続き確かめていきたいことでもある。

「無い」については、それぞれに微妙に力点や使い方が異なるものの
大谷さん・澪さんもブログに書いている。

 ■まるネコ堂ブログ ラベル:「無いの世界」
 ■山根澪のブログ「「ない」への道は、「ある」ことへの意識から。」

僕がこの1年くらいで関係性を深めた人たちは
仕事や、人との関わりや、物との関係など、
自分なりに暮らしの捉え直しを続けている人たちだと思う。

こうした中にいる人たちは、
表面に見えている「働き方」や「暮らし」は
「ほのぼの」「まったり」しているように映るかもしれない。
ドラマ『すいか』の登場人物もそう見える。
2003年当時はそう表現するしかなかったのだろうと思う。

けれど恐らく当人はそれぞれ、
ストーリーの強烈な引力を感じつつ
「あてどなさ」の中に足場を見つけて生きているはずで、
それが確固たるストーリーに該当しないからといって
「ほのぼの」「まったり」で形容されてはたまらん、
と言いたくなってしまったのだろうと思う。

※当初「「あてどない日常」を越えるには」とタイトルをつけていましたが、
 「留まる」方がしっくりくると思い変更しました。

0 件のコメント:

コメントを投稿