あてどない散歩の最中に撮った写真。 |
確固たるストーリーが崩壊した中でどう生きていけばいいか。
という話は、社会学などの方面では以前から議論されているみたいだ。
僕はその議論にはあまり詳しくない。
けれど最近ヒントのようなものは掴みつつあって、それは
「ここに窪みがあるから安心して足をかけられる」とか
「水の流れが急で不安だから左側からまわる」とか
「疲れてきてこのまま進むのは難しいから一旦岩場で休憩する」とか
そういう、ごく細かいレベルの具体的な確かさを手だてに
進んでいくことではないかと思う。
進んでいくことではないかと思う。
「何分後にはせめてあの岩場までは到達していたほうが云々」
「そもそも沢登りをする意義とは云々」
などと言う人が世の中にはたくさんいる。
こうした声にすぐに光明を見いだしたくなるので、
その声に全面的に倒れ込まないでいられるかが肝ではないか。
このあたりは以前書いた「僕の中の他人が言う」という言葉が役に立つ感じがする。
現代はあらゆることが相対化される「あてどない」時代だとすれば、
この「あてどなさ」を逆手に取った上で自分の足場を確保できたら、
「あてどない」ことに留まっていられるのではないか。
そして、「逆手に取る」ために必要なのは
恐らく時間的・空間的な空白や「無い」状態なのだと思う。
このあたりはまだうまく言語化できないので、
今後も引き続き確かめていきたいことでもある。
「無い」については、それぞれに微妙に力点や使い方が異なるものの
大谷さん・澪さんもブログに書いている。
■まるネコ堂ブログ ラベル:「無いの世界」
■山根澪のブログ「「ない」への道は、「ある」ことへの意識から。」
■鈴木陵のブログ「「無い」ことによって初めて可能になる「触り直し」」
仕事や、人との関わりや、物との関係など、
自分なりに暮らしの捉え直しを続けている人たちだと思う。
こうした中にいる人たちは、
表面に見えている「働き方」や「暮らし」は
「ほのぼの」「まったり」しているように映るかもしれない。
ドラマ『すいか』の登場人物もそう見える。
2003年当時はそう表現するしかなかったのだろうと思う。
けれど恐らく当人はそれぞれ、
ストーリーの強烈な引力を感じつつ
「あてどなさ」の中に足場を見つけて生きているはずで、
それが確固たるストーリーに該当しないからといって
「ほのぼの」「まったり」で形容されてはたまらん、
と言いたくなってしまったのだろうと思う。
※当初「「あてどない日常」を越えるには」とタイトルをつけていましたが、
「留まる」方がしっくりくると思い変更しました。
0 件のコメント:
コメントを投稿