2015年4月13日月曜日

「あてどない日常」に留まるには(前半)



ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ソラニン』を思い出した。
「例えば ゆるい幸せが だらっと続いたとする」昔よく聴いた。懐かしい。
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以前書いた記事
「ドラマ『すいか』を観た。地味な大事件を必死に生きる日常。」
の続きのような、続きでないような。
「日常をまったりと生きる」「ほのぼの」ドラマだというレビューを
たまたまwebで見つけたけれど、ぜんぜん納得いかない。
と書いたけれど、参照した記事が書かれたのは2003年9月。
 高度経済成長期も過ぎ、1999年で世界は終わらなかった。
当時の言い回しとしては、自然だったのかもしれない。

けれど、やっぱり「今」この作品を観て
「まったり」「ほのぼの」したドラマだとは
とても言い表せないような気がしている。

* * *

一般的には「東日本大震災以降、『終わりなき日常』が終わった」
みたいな話で語られそうな話でもある。
いつまでも続くと思っていた日常が、
突然断ち切られるかもしれないという状況。

もちろんそれもあるけれど、
僕にとってはやっぱり「仕事をやめた」ということが、
この一件に関してとてつもない影響力を放っている。

それまで信じていたものや頼りにしていたものが、
ある日を境に目の前からなくなってしまうような状況。

その状況下で、ストーリーに生きようとするのはとてもしんどい。

「今までこうだった『から』こうする」
「今までこうだった『のに』こうできない」とか。

このあたりの考え方は、大谷さんのブログから影響を受けている。

 ■まるネコ堂ブログ
 「【105】タイのインスタントラーメンを食べる。オーガニックとジャンクが同居するシーン。
 「【017】シーン先行型の暮らし

長くなったので、後半は後日。

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