2015年7月30日木曜日

東山に、書生を訪ねる

今日は友人の大谷さんが書生をしてみているということで、仕事終わりに東山の和室に行った。

地下鉄烏丸線、四条駅で降りて地上に上がりバスに乗って東山仁王門へ行く。烏丸御池で東西線に乗り換えた方が早く着くけれど、市バス定期があるので多少遠回りでもバスに乗るとお金がかからない。職場を出て1時間くらいで到着した。

住人の共同玄関にある靴箱を開けると、靴はなく大谷さんは不在だとわかる。

階段を上がって部屋の窓から中を覗くと、普段は何もない畳に荷物が転がっている。鍵を開けて部屋に入ると蚊取り線香の匂いがして煙がたちこめている。ナイフで切り取った跡がある食べかけのスイカがお盆の上にある。コップや湯飲みが5個ほどあちこちに置いてある。大きめの皿には何かの汁が残っていて箸がある。壁沿いに固まっている寝袋、ポカリスエットのボトル、白霧島の瓶はほぼ空いていてスミノフの瓶にはまだ3分の2ほど中身が残っている。本が3冊ほど積んでありタイトルを見ると大谷さんがブログで言及していた本だとわかり、やはりここには大谷さんが居たのだとわかる。しかし本の下にあるパソコンらしきものに見覚えがなく、これは誰の持ち物だろうかと思う。

コンセントにはMacのACアダプタが刺さったままになっていてMacは見当たらない。すぐそばに見覚えのないイヤホンとクリップ式の小型扇風機が転がっている。ぼくは大谷さんの持ち物をもちろんすべて知っているわけではなく、けれど部屋に残されたものに見覚えがあると安心し、見覚えがないと不安な気分になる。この部屋には一体だれがいたのだろう。ほんとうは湯飲みの数、5人ほどさっきまで人がいて宴会でもしていたのではないか。

扇風機のそばにはやはり大谷さんの持ち物だとわかるクリップ式財布と、小銭が種類ごとに並べられている。見覚えのあるcarapaceのリュックが台所のそばに置いてある。おそらく洗って干した後と思われる甚兵衛が転がっている。

ここまできてぼくは何かの事件に居合わせた登場人物のような気分になる。この持ち物から読み取れることは何だろうか。一応行く前に大谷さんに電話しておこう、と思って電話してから1時間が経つけれど返事がなく、クリップ財布も置いてある。電車に乗ってどこかに行ったわけではなさそうだ。本を1冊だけ持って図書館にいるのかもしれない。いや、電話がないところを見ると銭湯にでも行っているのかもしれない。手ぬぐいだけ持って汗を流しに行っているのかもしれない。

と考えて、ぼくはどのタイミングで外に出ようかと考える。このまま待っていて大谷さんが帰ってくる様子を想像すると、自分が座敷童か何かのような気分になって少し楽しい。ここに来たのは大谷さんがここにいると知っているからだけれど、会うことが目的かというとそうでもない。会えないなら会えないで、そのまま帰ってもいい。お腹が空いてきたので、ごはんも食べたい。

このあたりで急に体温が上がってくるのを感じて、逃げるように部屋を出た。白い麻の無地のシャツの裾をズボンから出し、靴下を脱いで古着屋JAMで買った茶色のスラックスの裾を3回捲り上げる。ビルケンのロンドンを裸足で履いて外に出ると風が通って気持ちがいい。ぼくは仕事終わりにここに来たけれど、気分は旅行者だ。

風を浴びてほっとするとお腹が空いてきたのでイオンに向かって食べ物を調達することにする。この暑さで部屋に戻って食べる気にはなれないので、二条大橋のそばの河原で食べることを決めて店に入る。割引で300円の助六寿司と88円のトップバリュ発泡酒を買って河原に向かう。

横断歩道でクールビズ姿のサラリーマンと並ぶ。ふらっと来ることを決めて、今こうして旅行者のように歩いていられることが嬉しくなる。河原に座ると辺りは暗くなってきていて、正面にはリッツカールトンの客室が見える。いくつかの部屋はカーテンが開いていて灯りを背に宿泊客の影が見える。カーテンが自動で開閉しているのがわかる。

外国人バックパッカー2人組や、犬の散歩をするおじさんや、仕事帰りの人が横切っていく。ぼくは発泡酒を飲みながらいなり寿司をつつく。今日ちょうど職場の人と「海外に行くならどこか」みたいな話をしていてぼくは特別海外に行かなくてもいいやという気分になっていたことを思い出す。今も十分、なんというか異空間にいる。日常と非日常の境界、仕事とプライベートの境界、そういう境界が曖昧になる危うい空間にいる気がしていて、この感覚を味わえる条件は家から、職場から1時間の場所に出来てしまっている。もっと境界を曖昧にするようなことをしてやろうという、悪戯したくなるような気分になる。

そういうことをブログに書きたくなってきて歩き始める。部屋に戻ってもし大谷さんがいれば話せばいいし、いなくても今日はノートPCを持ってきているので部屋で書いてネットに繋がる場所で更新すればいい。部屋にあったスミノフを飲みながら書きたい気分だったのでつまみを買おうとイオンに寄ろうとするけれど助六寿司のゴミを持ったままだったので店内に入る気分にならずそのまま部屋に戻る。

部屋に戻ると考える間も無く荷物をまとめたくなるほど暑くてほんとうに荷物をすぐにまとめて部屋を出た。ここまでくるともう、道端やみやこめっせ、図書館周辺で大谷さんにばったり出くわすようなことがなければ帰るつもりになっていた。案の定そういうことはなく、バスの時刻を見て美術館前で飛び乗って帰る。

2015年7月23日木曜日

「これさえあれば大丈夫」と「あれがないとだめ」

誰かにおもねるとか、気に入られようとするとか
何かしらの目標達成をめざして立とうとするとか、
誰かのために、という言葉に依って行動するとか、
そういうことをなるべくしないで、留まって立っていられるといい

あれがないと自分はだめだ、という感じだと、それはむずかしくて

これさえあれば自分は大丈夫だ、というのがわかっていれば、わりあい、できる。

あれがないと自分はだめだ、というのは、なんというか、広がりに際限がなくて
あれもないと、これもないと、そう言われてみればあれも、もっとほしい
という感じで ずっと 延々と続いて広がる感じがする。

新しい音楽を手に入れたくなるとか 
そこに何かあるんではないかと思ってイベントに行くとか
あれもやります これもやりますとか、
そういう感覚や動きと近い場所にある気がする。

これさえあれば自分は大丈夫だ というのはまた違っていて
それは一見、あれがないとだめだ というのに姿が似ていて
けれどこっちは 延々と広がる感じというのはなくて、むしろ
狭まったり 孤独な感じがしたり でも静かにあかるく、はっきりしている
そういう感じだ。

やれなさとか、不安とか、そういうものが目の前にぼんやりあって
そこで あれがないとだめだ、の方に向かっていきそうになるのをちょっと待って
じっと待っていたら これがあれば大丈夫 がみえてくるという感じがする。

そこでちょっと待っているうちに
「よろしいですか、フージーさん」と、『モモ』に出てくる灰色の男が話しかけてきて
そんな風に過ごしている時間は無駄だ、時間を倹約しなさい、という。

立ち方を覚えていれば、モモのように 無縁の輩として居られる。

2015年7月18日土曜日

「現実」はどのように構成されるか

なんというか、いっこうに寝られる気配がなくてブログを書く。

最近、現実というものはどのように構成されるかということに関心があって

自分のどうしようもない居所をはっきりと、切実に外に出してみて
そのうえで現実というのは構成されてくるという気がしている。

それを妨げたり、しにくくなる要素というのは世の中にあふれていて

たとえば世の中の動きが気にかかっていて、
何か言いたい、言わねばという気分がふつふつとわいていて、
わかりやすい主張に流れてしまいたくなる感じがある。

でも何かを言い切るにはちょっと違うという感じもあって
言い切れるのであればいいのだけれども、
もし言い切れないとすれば、
たとえその言い切れなさの正体が何なのかがわからなくても、
その中でそこに留まれるかどうかというか
そこで現実の構成のされ方が変わってくるように思う。

自分がほんとうに直面しているものから目を逸らすとか、
逸らすとまで言わないにしても、
自分から離れたものに対して、自分が直面しているものを投影して
あたかも自分が直面しているものがなんとかなったかのように思えてしまう
そんな誘惑というか 解決策めいたものに飛びつく

そういうことをしないでいられるかどうか
ということではないか。

もちろん、自分から離れたことと考えるのはまちがっている、
自分にも関係の深いことだよ、という主張は正しいように思えるし
そうだなという気がする。

けれどそう考えたとして、では自分からなにか発信をするとか
動きを起こすというのは一段違う層にあるという気がしていて
自分にとってそこに段差があるとすれば、
その一段低いところに留まらざるを得ないというか
そこを一段飛ばしでジャンプしてしまうことで
スキップされてしまうなにか、
自分がほんとうに直面しているものが
視界に入らなくなってしまうようなことが起こるのではないか。

そんなことを考えている。

2015年7月14日火曜日

服装の研究(3)服と社会性

ほぼ日の記事「男たちよ、シャツの下に何を着る?」がおもしろい。

タイトル通り「男は仕事中に着るシャツの下に何を着ているのか」というアンケート結果をまとめたもので、糸井重里がこんなことを言っている。

服って、社会性と自己満足の接点だから。
自己満足・自己表現だけで服を着てるひとって
基本的に世の中にはいない。
その意味では、社会性の部分をどういうふうに
無視をしたり、受けとめたり、
跳ね返したりするかというところに
まさしくこの問題がある。
 

ここのところずっと自分にへばりついている感覚、というか、ずっとへばりついていると最近になって認識できてきた感覚みたいなものがあって、それは、できない時に「できない」と言えるかとか、黙っちゃおれんときに黙ったままでいないとか、特に魂がこもっていないのにそれらしいことを言おうとしていないかとか、そういうこと。

常にそういうものが一致しているかというとそうではなくて、相手の反応が怖くて聞こえのいい言い方をしてみたり、いい格好しようとして何か言おうとしたり、けっこうそういうことをやっている。そういうとき、ずーんと重たく、ああ、またやってしまったという感じが残る。いや、「重たい」かどうかはともかくとしても、そういう自分がちらついて見えるのがわかる。

こういうことを考えていると昔の体験を思い起こすことが多くて、例えば、小さい頃流行りのTVネタを知らなくて友だちに馬鹿にされて知ったかぶりするようになったこととか、ほんとうは早く辞めたかった習い事を辞めたいと言えずに上手いことサボりながら何年も続けちゃったこととか、特にやりたくもなかったけれどなんだか引き受けないといけない気がしてリーダーや代表をやって自分の居場所ができてしまったこととか。そしてそれらは、「なんとなくやれてしまっていた」という感覚としてある。

これに対して、前の仕事を辞めたことが「やれなかった」という感覚として思い出される。

どんなに先人の言葉を読んで自分を奮い立たせても、どれだけ似た悩みを持つ人たちと語り合って「自分だけじゃない」と勇気が湧いても、先進事例を見聞きして夢が膨らんでも、本を読んでやり方を工夫しても、朝から晩まで働いても、「やれなかった」という事実だけがある。「自分を何かに適合させる」ということの限界値に行き切ってしまった感がある。

「服と社会性」とか言っておきながら服のことを全然書いておらず、気がついたら「ぼくと社会性」の話になっているけれど仕方がない。ぼくは服がとても好きだとかそういうわけではなくて、いや、見たり選んだりするのは好きなんだけれども、こういうことを考えることの一部として、「服を選ぶ」とか「着る」とかいうことが位置している気がしている。このあたりについてはまた書くかもしれない。

7月14日

帰りにマクドナルドに寄る。

ガラス越しに大通りの見える席に座って、しばらくぼーっとする。最近は持ち歩いていなかったノートパソコンを取り出して、仕事用のスケジュールをGoogleカレンダーに書き写す。これで荷物が一つ減らせるのではないかと想像する。本を取り出してゼミのレポートを書こうとするけれど、いまいち集中できなくてやめる。

パソコンにイヤホンをつないで、うすく音楽をかける。店内の話し声とドラムフレーズが混ざって現実感が薄らいでいく。歩道には右に左に人が行き交っている。

正面の車道に白い軽自動車が停まっている。窓ガラスには黄色い「M」のマークが上から潰されたように縮んで映り込んでいて、今自分はマクドナルドに居るのだと思い出す。

仕事帰りのサラリーマンに混じって浴衣姿の人が目に入る。今日は確か祇園祭の宵山で、何年か前に初めて宵山の街に出た時は歩行者天国に露店がたくさん出ていた。今日もそんな風になるのだろうか、と思いながら外を眺めていると、今見えている風景が何かが始まる「前」のように見えてくる。けれど車道に車は走っているし、露店が出る気配はない。僕は祇園祭のことを詳しく知らない。

こうしてブログを書いているときはノートパソコンのモニタに焦点が合っていて、歩道をゆく人の足という足が、ガラス越しにぼやけて視界に入っては消えていく。

2015年7月8日水曜日

服装の研究(2)サイズの合っていない革靴

このあいだ靴屋の店員さんと話していて気がついたのだけれど、今履いている革靴、実際の足のサイズよりも少し大きいらしい。

しかも、「靴紐も緩めなので、脱げないように意識して歩いていらっしゃるんだと思います。こういう履き方だと、かかとだけがすり減ります」とのこと。なるほど。

歩き方に注意してみると、確かに、こう足指で靴底を掴もうとするような感じで歩いている。地面を蹴るたびに足指を動かして足の裏を引っ張り上げている感じ。そら疲れるわ、という感じだ。それから靴と足が密着していないので、かかとが地面に擦ってカポカポ音が鳴っている。かっこわるい。

紐をきつめに縛ってみると、歩きやすくなって音もしなくなった。でも靴先のスペースに足がずれ込まないように甲で固定しているので、締め付けがきつくて甲がしんどい。いずれにせよちょっと踏ん張る感じもあって、やっぱり疲れる。

4年くらい前に、靴屋ではなく服屋で買った靴。茶色の革靴を探していて、店内にあるのを見つけて、軽く試し履きしただけで買ってしまった気がする。

よく考えると、去年1年間はこの革靴はほどんど履いていない。スニーカーでは行きづらい仕事の時に数回履いたくらいで、それ以外の時には取り立てて履きたいとも思わなかったし、実際履かなかった。

今年の4月からは、週5でこの靴を履いている。これは履きたいから履いているというよりも「今持っている靴の中ではいちばん職場に履いていくにあたって無難」だと思うから履いている。去年は淘汰されていたはずのものが、環境に合わせようとして生き還ってしまった。

2015年7月5日日曜日

服装の研究(1)はじめに

最近、服装について考えている。

服の流行に敏感なわけでもないし、ファッション雑誌もほとんど読まない。
けれど服について考えている。

友人の大谷さん・澪さんの自宅であり工房であり猫がいる「まるネコ堂」に通うようになって1年くらいが経っていて、最近はゼミ円坐などでほぼ毎週末訪ねている感じだ。僕にとってここに行くというのはなんというか完全に生活の一部になっていて、もちろん平日に仕事が終われば基本的に自宅に帰りたくなるし帰るんだけれども、日常の流れの中にまるネコ堂であてもなく話している時間というのが確実に組み込まれていて、その存在感というのはとても大きくなっている。

春から始まった仕事は週5日勤務なので、月曜朝から金曜夜まで働いて、あとの2日は家にいるかまるネコ堂にいるという感じでだいたい過ごしている。5:2でばちっと1週間が分割されて、5日間はもう残りの2日間とは別世界だとすら思えてくる。少し前に週2〜3日シフトで働いていた時期があって、その頃はもうちょっと日々に連続性があった。

服の話を全然していないのだけれど、この分断される感じをできるだけなくしたいと思っていて、そこには服装がけっこう影響しているんではないかと思い始めている。仕事に着て行っている服、つま先の細い革靴を履いていわゆるビジネス的なシャツを着てまるネコ堂に寄る、ということができない。物理的にはできるけれどあまりそれをしたくない。逆に普段着ているような、アウトドア風のスニーカーとかサンダルにTシャツではさすがに出勤しにくい。

この中間を探したいと思っていて、仕事だろうがそうでなかろうが着たいと思える服を身にまとって、そうしていさえすれば職場だろうがまるネコ堂だろうがfenceworksstudio CAVEだろうが、するっと行けるという状態にしたい。

職場にジャケットを置いてみたりカバンについてはすでに解決していたりするけれど、特にシャツ、靴あたりは難関で、なんとかしたいと思っている。

行き着く先はわからないけれど、なんというか、考えたりやってみたことを記していこうと思っています。