281時間のフリーキャンプが終わった。
正確にいうと「281時間の本当にフリーなフリーキャンプinまるネコ堂」と題した企画の終了時刻を過ぎた。
開始時刻を迎える数時間前からぼくを含めた最初の参加者4人はまるネコ堂にいて、開始時刻とそれより前の時間の境目は曖昧だ。それらを分かつのは「始まったらドーナツでお祝いしよう」と食べたドーナツとコーヒー、それから最初におこなったミーティングくらいのもので、すでに開始時刻前から何かが始まっていた。
終了時刻にもドーナツを揚げてコーヒーを淹れて、参加者で友人のうみちゃんが急遽手作りしたゴールテープを切るということがおこなわれた。わかりやすい儀式を経て何かが終わったような気がするけれど今も何かが続いている。
うみちゃんが先日開かれたとある場に対して「行くと決めた時から私は居た」というニュアンスのことを言っていたのを思い出す。うみちゃんはこのフリーキャンプにも来ると言っていて、けれどいつ来るかは当初知らされていなくて、ぼくたちはいつうみちゃんが来るんだろうかとそわそわしながら過ごした。うみちゃんはずっと居たし、今もこうして書いているのでやはり今も居る。
今日は残業せずに職場を出てきた。いつもこの時間に帰る同僚の人に「この時間に帰ったら何したらいいかわかんなくなっちゃうんです。早く帰ったらどうしてますか」と聞かれた。ぼくは一瞬戸惑って「こないだはマクドナルドでぼーっとしてました」と答えたけれどそのことを今またマクドナルドで思い出している。
この「 281時間の本当にフリーなフリーキャンプinまるネコ堂」を思いついたときに冗談半分で「フリーキャンプのように生きる」と言って笑っていたけれど本当にそうだという気がしていて、まるネコ堂の庭先のチェストに腰掛けて生い茂っている草、それはあとで解説を聞くと大葉やニラやミントやルッコラや雑草だったりするのだけれどその時見えているのは緑色の庭で、個々の植物の種類に焦点は当たっておらず、ただぼーっと庭を眺めているときに「生きるとか暮らすって何だ」という感じがうっすらと浮かんで漂った。それは答えを出す方向には働かず、そういう問い自体が吐き出したタバコの重い煙のように頭の周りにただ漂って霞む。
フリーキャンプの期間中には驚くようなことがいくつも起こっていて、それは「フリーキャンプの凄さ」みたいな文脈で説明したくなるけれど本当にそうだろうか。日常と区切った何かであったから何かが起こったのだろうか。
少なくともあるのはこの期間中にぼくは何人かの人と会って話をしていて、いろいろな出来事が起こっていろいろな気持ちになって、とても疲れたり元気になったり一人になりたくなったり人と話したくなったりした。ただ、これらのことが起こった。
これをするとお金が得られるとか充実感や安心感を得られるとか学びがあるとか、居場所ができるとかより上手く何かができるようになるとか、そういう類のものを持ち出してきた場合はこの「ただ起こったこと」がそのままのものとして見えない。 これらのことは、ただ生きるとか暮らすということとは位相の違うところにあって、その性質を見極めて上手く使えばいい類のものだ。
ごはんを食べて美味しい美味しいと声が出て、会いたい人と会って、思い立ったときにやりたいことをやり、人と一緒に居すぎて疲れて一人になりたくなり、移動したくなったら移動して、庭で夕暮れを見てああーと声が出る。これが暮らすとか生きるということだと言ってしまうのが陳腐に聞こえるのは、「早く仕事が終わったら何をするか」とか「生きるとか暮らすとは何か」という問いが成立しているからだ。そういう問いが煙のように霞んで漂ったときに、フリーキャンプのように生きるということが起こる。というよりも、そういうことがただ起こっていたところに後から「問い」がやってきたのだ。
フリーキャンプが終わってから25時間57分。
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