2015年10月28日水曜日

東山の和室生活・レポート

「東山の和室で一ヶ月生活する」と言い始めて、ほぼ一ヶ月が経とうとしているので、気がついたことをメモしておこうと思います。

◾︎夜寝るのが早くなった。
和室に帰ってきてごはんを食べて銭湯に行ったり行かなかったりして、たいてい10時半とか11時には眠くなって寝てしまう。実家にいるとだいたいネットをだらだら見ていたりするので、たぶんこれはインターネットがつながっていないことの影響が大きい。

◾︎寝袋でも案外寝られる。
1ヶ月過ごすとなると、耐えきれなくて布団を搬入したくなったりするのではないかと思ったけれど予想が外れた。案外寝袋でもしんどくない。むしろ問題は枕で、頭が床についた状態だとものすごく眠りにくい。しばらくは着替えや荷物を枕代わりにしていて、途中で座布団を折って枕にするようになってとても快適に眠れるようになった。

◾︎料理をしようという気にならない。
この一ヶ月で買った食材は、米、パスタ、パン、うどん、梅干し、ふりかけ、トマト缶、レトルトカレー、麻婆豆腐の素、豆腐、納豆、卵、シリアル、牛乳、飲むヨーグルト、チョコレート、惣菜類(揚げ物)、コーンスープ、即席味噌汁、ドリップコーヒーなど。冷蔵庫がないので、長期保存できるか、応用がきいて確実に食べるものしか買っていない。「カレー食べたい」と思っても野菜や肉を買っても保存できないという感じが先に立って、レトルトばかりになる。料理するには、もう少し定住感がないと難しい。パスタも作ろうと思ったけどチーズが保存できない(持ってきたけれど腐らせた)のと、コンロがひとつしかなくソースと麺を茹でるのが面倒でさっぱり作らなくなってしまった。

◾︎共同トイレはあまり気にならない。
ほかの住人とトイレで出くわすこともほとんどないので、これはあまり気にならない。定期的に業者の方がきて清掃しているようなので、だいたいきれい。


また思いついたら書き足します。

ぼくにとって書くことや話すこと

ぼくにとって書くことや話すことというのは、ぼくに見えている現実を取り出して「今こうである」ということを確かめる行為だ。

ある出来事に直面する。それは何か回答や見解が求められることであったり、状況からみて自分が何かいうべきではないか、と思えるようなことであったりして、その都度ぼくは言葉や行動によって反応する。

けれどこれは注意深くやらないと自分の見えているものとずれたことを言っていたり、思ってもいないのに余計な気を利かせて話していたりする場合があって、そういったずれにその場で気がつくこともあればまるでずれなどなかったかのように過ごしてしまうことさえある。

こう捉えたほうがいい、こういう考え方もできるはずだ、とか、そういう特定の方向づけになるべく影響されないかたちで「見えている現実」を取り出そうとすると、ぼくにとってはそれは書くとか話すとかいったことによってようやくできるという感じがしている。

人の書いた文章を読んで画面の前で唸り、しょうもない文が書けないぞという気分になって一向に何かを書ける気がしなかったのだけれど、こうして書いている。

何かを書ける状況というのは意図して作ることができる類のものなのかどうかは分からない。もう何も書けないんじゃないかという気分になっていたかと思えば、ぱっと視界が開けたように書こうという気分がやってくることがあって、その予兆みたいなものはなく、銭湯の湯船から磨りガラスの向こうに脱衣所の人影をぼんやり眺めている時だったり、夜の路地をぶらぶらと歩いていて交差点に差し掛かった時だったりする。

これは何か杭を打つようなもので、書くことによって自分はこういうものを見ているという現実を確かめて打ち付けているような気がしている。

自分にとって微妙にずれた現実の固定化をすすめるような話し方や書き方ばかりしていると、そちらの状況が現実としてより力を持ってくるのをひしひしと感じる。そうなると特に必要もない時にそちらの現実が背後からぬっと顔を出して、ぼくの頭や手や足をとって動かそうとする。

そういう気配を感じながら書く。

2015年10月27日火曜日

10月27日(月)

1日の仕事を終えて、バス停に並ぶ。前に並んでいる3人の後ろにつけて顔を上げると、いつも出勤時と退勤時に必ず目に入る屋外時計と街灯の背景に赤みがかった空が見える。地面から高く伸びる柱の先端に乗っかっている街灯の電灯部分は格子状の箱のようなもので覆われていて、灯りはまだついていない代わりに格子の間から空の赤が顔をのぞかせていて、格子の一本一本の輪郭がくっきりと描き出されている。

ああ、と思って以前もまったく同じような風景を見た、ということに気がつく。それはたかだか数ヶ月前で、その時の時間感覚を思い出す。それはまだ1日の終わりという感じがしなくて、まだここから何かをする余地がある、というかホームグラウンドに帰ってきてこれから1日が始まるようなそういう感覚だ。ここからどこへでも行けるし何でもできるという感覚でバスに乗り、実際には家に帰るだけなのだけれどとにかくそういう心持ちで移動していたということを思い出した。

2015年10月24日土曜日

無題

1日の出来事が、わーっと頭に浮かんできて、負荷がかかる。

負荷をなんとか減らそうと思ってイヤホンを取り出して、騒がしい曲をかけてみる。何年か前からやっていたやり方で、今回もそうする。けれど耳に音楽が響いているだけで状況は変わらず、わーっと頭に浮かんでくる。ということに気がついて音楽に意識が戻って曲が流れていることに気がつく。

銭湯の湯船に浸かって目を閉じて口を空けていると、やっぱりわーっと頭に浮かんでくる。もうどうしようもなく、そのまま口を空けている。じりじり、じりじり、とハードディスクの読み込み音がひとりでにしているような、あるいはわーっと浮かんでくる1日の映像に追いつこうとするように、じりじり、じりじり、と頭に音を鳴らす。

浮かんでくるのは一瞬から数秒の映像で、その当時、つまり今日ぼくが見た人の顔の角度やその表情、部屋の広さが再現されたかと思うと別の映像に切り替わる。大抵そこに音声はなく、そのときの心持ちというか感覚のようなものが思い起こされるかどうかという瞬間に、その場面で自分が言われた言葉を思い起こそうとする。と同時に無理に思い起こさなくてもいいという気がして、言葉の断片に触り、だいたいこういう言葉だったという輪郭が浮かんでまた別の場面に切り替わる。

そういうことを繰り返しているとだんだん湯船に浸かるのに疲れてきてお風呂からあがる。

音楽をかけて負荷を減らそうとしても逆効果で、別のもので押さえつけようとした分圧力を伴って映像が噴き出してきているのではないか、という考えが浮かぶ。

ということを書くことで、何かを保とうとしている。

2015年10月18日日曜日

以前ふつうにやっていたこと

『はてしない物語』に登場するバスチアンは、本の中の世界「ファンタージエン」で自分の望みが叶えられるたびに、記憶を失っていく。最終的に彼は自分の名前を忘れる。

* * *

「以前はふつうにやっていたこと」というのがある。これは、「今はふつうにできなくなっている」ということを自覚しているからできる表現で、これが自覚化されていない状態では「ふつうにやっていたこと」を対象として取り出すことができない。

不意に何かのきっかけで「今はふつうにできなくなっている」ということを自覚した瞬間に、その瞬間の直前までの状態が「今はふつうにできなくなっている」ということを自覚していない状態として区切られる。

ここでぼくが「以前はふつうにやっていたこと」という言葉で指しているものは、特定の名称を使うことによって指し示したり、簡潔な言葉で解説するということが難しい。

借りているアパートの一室から同じアパートの別室に引っ越すのが妙に楽しかったり、人に会ったら10年ほど借りたままになっていたCDを返されて懐かしい気持ちになったり、そういうなんの脈絡もない出来事と自分の反応の積み重なりが今日はただ目の前にある。

計画を立てる、見通しを持つ、目標を設定する、根拠を示す、意義を説明する、そういうったものを持ち出すと本来は脈絡もなくただそこにある物事が整然と並べられていく感じがあって、そういう働きと「以前はふつうにやっていたこと」とが関わりがある気がして、その関わりについて書きたいけれどトイレに行きたくなってきたのでここで書くことをやめる。

2015年10月16日金曜日

半年前の彼

ずっとブログを書いていないなあ、書くペースが落ちたなあと思っていて、散歩に出て何か書きたくなって、何を書くとも定まらないままとりあえずパソコンを開く。

デスクトップにはいくつかのテキストファイルが無造作に置かれていて、その中のひとつを開くと、ちょうど半年くらいまえに自分が書いた文章が記されている。

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駅に向かうのが足早になる。
いつも駅までかかるのと同じ時間見積もって家を出ているはずなのに、
心なしか早足になっている。
カツカツカツカツ歩いている。

ホームで「ただ待つ」というのが耐えられない。
あと5分で来る電車に対して、早く来ないかといらいらする。

電車内で気を張る。
「降り損ねてはいけない」という考えが常にひっかかっている。
ぼーっとすることに没頭できない。
何かのスイッチがオフになっていて、ある一定以上は考えが進まない。

込んでいる電車内では、もっと気を張る。
目を閉じ、こうべを垂れて肩が内側に向いて、胸のあたりが狭くなる。
いくつものスイッチをオフにして、
じっ と縮こまって、人が、時が過ぎるのを待つ。

声を張る。テンポが上がる。
いつもの調子でとぼとぼと話していると
届かない感じがする。

帰ると、顔・肩・顎あたりがこわばっているのを感じる。
口角を上げようとしたときに使う筋肉が緊張していたような感じがする。

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当時ブログに書こうとして、公開しなかった文章だ。

書かれている文章を読んでいると、これを書いた当時のぼくの姿が立ち現れて、彼が当時の状況を自覚的に切り取って文章にしている様子が見える。文章を読むと今のぼくが見過ごしている、あるいは慣れたと言えるような状態を当時のぼくは意識的に切り取っているところから、彼と今のぼくとはかなり距離があるのだということを、自分が書いた文章によって思い知らされている。

2015年10月4日日曜日

ベーシック・ライン生活。東山の和室で一ヶ月生活する。



どうしてこれをやろうと思ったのか、説明しようとするけれど上手くできない。

ともかく、いつもの荷物のほかに3日分の服を紙袋に詰めて、昨日東山の和室に到着して一夜明けて、今みやこめっせでブログを書いている。みやこめっせは今日、街でよく見かける紅茶メーカーのイベントがやっていて、おしゃれな女の人がたくさん行き来していて落ち着かない。ロビーを出て地下のガラス窓そばの椅子に移動して、また書き始める。

ここのところあまりブログを書いていなくて、どう書いていたかを思い出すようにとりあえず思いついたことを打ち進めている。目の前をお母さんに抱かれた赤ん坊が通り過ぎて目が合う。館内にはなぜか和風にアレンジされたボレロや聞いたことのある何かの曲が流れている。

最近、食べるもの、着るもの、住む場所、使う道具、そういうものには「これでいい」と「これこそがいい」をつなぐラインがあるのではないかと、そういうことを考えている。「もっといいものがあるのではないか」と、他との比較から妥協に位置せざるを得ないような「これでいい」でもなく、それについてよく知っていたりたくさん投資したり所有することで自らの立ち位置を保つような、そういう「これこそがいい」でもなく、ただ「いい」としみじみ思えること。

それは例えば土鍋で米を炊くようなもので、土鍋で米を炊くと15分そこらで炊き上がるうえに、なにより美味い。仲間の間では湯豆腐も鍋ものもできるという話が出ていて嬉しい。炊飯器だと「早炊き」でも30分はかかるし、新しく買うと高い。今和室には炊飯器はないけれど、土鍋がある。「炊飯器くらい買えばいいのに」という人もいるけれど、そういう話ではなく、また「炊飯に最適な上質な土鍋」を追求するつもりもなく、ただ土鍋でいいし、土鍋こそがいい。

「これでいい」と「これこそがいい」の2つが同時に起こるようなこと、このラインを勝手に「ベーシック・ライン」と呼ぶことにする。ゼミで吉本隆明を読んでいるせいもあって言葉を正確に使いたいと思って意味が的確かを調べてみたけれどよく分からない。この間友人の澪さんと話していて出たことばで、なんだか響きが気に入っているので、もう使ってしまうことにする。

この「ベーシック・ライン」を探求しながら、ひとまず一ヶ月、ここで生活します。生活というのはつまり、ここで寝てごはんを食べ、平日はここから仕事に行ってここに帰ってくるということをやってみます。