ぼくにとって書くことや話すことというのは、ぼくに見えている現実を取り出して「今こうである」ということを確かめる行為だ。
ある出来事に直面する。それは何か回答や見解が求められることであったり、状況からみて自分が何かいうべきではないか、と思えるようなことであったりして、その都度ぼくは言葉や行動によって反応する。
けれどこれは注意深くやらないと自分の見えているものとずれたことを言っていたり、思ってもいないのに余計な気を利かせて話していたりする場合があって、そういったずれにその場で気がつくこともあればまるでずれなどなかったかのように過ごしてしまうことさえある。
こう捉えたほうがいい、こういう考え方もできるはずだ、とか、そういう特定の方向づけになるべく影響されないかたちで「見えている現実」を取り出そうとすると、ぼくにとってはそれは書くとか話すとかいったことによってようやくできるという感じがしている。
人の書いた文章を読んで画面の前で唸り、しょうもない文が書けないぞという気分になって一向に何かを書ける気がしなかったのだけれど、こうして書いている。
何かを書ける状況というのは意図して作ることができる類のものなのかどうかは分からない。もう何も書けないんじゃないかという気分になっていたかと思えば、ぱっと視界が開けたように書こうという気分がやってくることがあって、その予兆みたいなものはなく、銭湯の湯船から磨りガラスの向こうに脱衣所の人影をぼんやり眺めている時だったり、夜の路地をぶらぶらと歩いていて交差点に差し掛かった時だったりする。
これは何か杭を打つようなもので、書くことによって自分はこういうものを見ているという現実を確かめて打ち付けているような気がしている。
自分にとって微妙にずれた現実の固定化をすすめるような話し方や書き方ばかりしていると、そちらの状況が現実としてより力を持ってくるのをひしひしと感じる。そうなると特に必要もない時にそちらの現実が背後からぬっと顔を出して、ぼくの頭や手や足をとって動かそうとする。
そういう気配を感じながら書く。
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