2015年4月27日月曜日

お守りを納めに行ってきた。

大学受験のときにもらったものが多い。
あとは初詣のとき。

去年、部屋の物を大幅に整理したときにお守りがいくつか出てきた。

「捨てるのはさすがにまずい気がする」と思って処分の方法を調べ、
神社に返しにいくと決めて2ヶ月。

「出かけたついでに神社に寄る」という感じにも、
「わざわざお守りを納めに出かける」という感じにもならず、
なかなか実現していなかった。

先月、思い立って近所の小さな神社に行ってみたものの
納める場所も神主さんらしき人も見当たらず、結局断念。

今日、お昼ごはんを食べ終わって外に出たくなったので
近所のわりと大きめの神社、長岡天満宮に行ってみることにした。

社務所に行けばいいんだよな。すぐに分かるかな。
「古いお守りを持ってきたんですが…」で伝わるのかな。
と、どきどきしながら境内を歩いていたら看板が現れた。

案外あっさり見つかった。

この中に納めるらしい。

なんだかあっさりしすぎていて戸惑ったので、
わざわざ社務所に行って巫女さんに確認した。

「あの、古くなったお守りはあそこに持っていけばいいんでしょうか」
「はい、あの中に納めていただければ大丈夫です」

2ヶ月くらいずっとひっかかっていた割には、
すんなりと納め終わった。

* * *

到着してから思い出したのだけれど、
この時期の長岡天満宮はキリシマツツジがちょうど見頃だった。

普段は割とがらんとしている境内や庭園に観光客がたくさんいて、
外国から来ているであろう人達も多かった。

普段見慣れている場所が時期によって様変わりするのは、
なんだか面白い。
近所のはずなのに、一気に知らない土地に来たような感じがする。

庭園の写真を撮る外国人に囲まれたので、
ぼくも真似して同じアングルで撮ってみた。
平日に休みを取って一人旅している気分。

ビールが飲みたくなって「300円までなら出すぞ」と思って屋台へ向かう。
しかし400円だったので断念した。
せめて炭酸が飲みたかったので、自販機のセブンアップのボタンを押した。

観光客に混じって、観光客の気分で、アルミ缶片手に歩く。

前に友人が「非日常であれば、それは旅だ」と言っていた。
本当にそうだなという気がする。

奇麗な景色を見るとか話題の場所に行くとかはそんなに重要ではなくて、
この非日常な感じを味わうことができたらそれでいい。
自宅からせいぜい3km圏内の旅。









2015年4月26日日曜日

「時間があると余計なことを考えてしまう」について。

考えることは疲れるけど楽しい。

「時間があると余計なことを考えてしまう」という言い回しがある。

「時間があると」と仮定しているので、
これを言う人は時間がない状態、おそらく忙しいのだろう。
日々何かに追われていて余裕がないイメージが浮かぶ。

「余計なこと」というくらいなので、
それについて考える必要性は高くないのだろう。
考えないからといって何か問題が起こるわけでもなく、なんとかなっている。

「考えてしまう」ということは、
自分の意思とは無関係に「考え」が起こっているのだろう。
考えなくてもいいはずなのに、できれば見ないでおきたいのに、
ふとした時に背後に気配を感じる。

こう考えると
「時間があると余計なことを考えてしまう」の続きは
「それくらいなら、時間はないが余計なことを考えずに済むほうがマシだ」だろう。

時間をなくすことによってでしか、「考える」ことに対抗できない。
逆に言えば、時間さえあれば、「考える」ことができる。

ゼミで読んだミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出す。


2015年4月19日日曜日

ジャケット、復活。

タイトなサイズなので、
どうしても背中から脇が突っ張る。

脇の部分が解れていたジャケット。

今朝、修繕にもう一度トライしてみたところ、
案外うまくいって着られるレベルになった。

裏地の部分に縫い糸が若干見えてしまうけど、
人に見せるような箇所ではないので普段着る分には問題ない。

服について昨日色々と考えた結果わかったのは、
ジャケットは「戦闘服」だということだ。
「社会人としての身だしなみ」という視点からの攻撃から
上半身は少なくとも守ることができる。

そういった類いの攻撃を受けない場所や環境では、着る必要がない。
というか、取り立てて着たいと思わない。
なので、職場のロッカーに置きっぱなしにしておくことにした。
必要な場所で、必要なタイミングで着れればそれでいい。

そんな風に「ジャケットの位置」が自分の中で固まると、
不思議ともう一度修繕してみようという気になったのでした。

2015年4月18日土曜日

「服を買う」に至るまでの記録

スラックスも気に入ったものを見つけたので結局購入した。
けれど、変な買い物はせずに済んだ。

仕事環境が変わって、服が必要になった。
家を出て数分、コンビニの前で立ち止まる。

あれ。そもそも僕は何を買いたいんだっけ。
わざわざ大阪まで行くなら、カーディガンを買うついでに、
シャツやズボンも良いのがあれば買おうと思っている。
でもなんか変だ。もやもやする。

駅に向かう道を引き返してみる。
ええと、そうだ、最初はジャケットを買おうと思っていた。
でもジャケットはあまり好きでないことに気がついたんだった。
仕事着としては妥当だけど、私服としては好んで着ない。

* * *

住宅街を歩く。

持っているジャケットのうち1着は脇の部分が解れていて、
今朝直そうとしてみたけどうまくいかず、嫌になってやめた。
別の1着をこの数日着続けていて、でも自分で洗濯できない。
いちいちクリーニングに持って行くのも面倒だ。

そうだ、だからジャケット代わりにシャツの上に羽織れるもの、
かつ自分が着たくて、仕事にも着ていけるもの。
だからカーディガンが必要なんだった。そうそう。
よかった、出発できる。

でも待てよ。
なんか「ついでに」ズボンやシャツを買おうかと思っている。
これは何だ。

* * *

もう一度家の前に戻ってくる。

この2週間、職場には2本のズボンを履き回して行った。
今あるものでなんとかなりそうで、
無理して買わなくてもOKだと思ったんだった。

ただ、夏になると話は別だ。
去年はほとんど短パンで過ごしたから何とかなったけど、
今年はそうはいかない。
そうか、「ゆくゆく」要るかもしれないだけで
「今」手に入れたいわけではないのか。

* * *

家を通り過ぎてまた住宅街を歩く。

じゃあシャツはなんだ。どうして浮かんだんだ。
シャツ、数は十分ある。
ただしそのうち半分はチェックのシャツだ。
チェックのシャツはフォーマル度が下がる。
けれどシャツの質感に左右される感じもあるので、
持っているもので試してみる余地はありそうだ。

* * *
 
もう一度、コンビニを通り過ぎる。

それに無地のシャツもある。
でもそのうち半分はサイズが気に入っていない。
セーターやジャケットの下に着る分には重宝するけれど、
シャツ単体で着たい感じが全然しないんだった。
もう少し暑くなって世間が「クールビズ」と言い出した時期には
「着ていきたい」と思えるシャツがほしい。
でも、今のところなくても問題はない。
そうか、これも「今」の話じゃないのか。

* * *

おおそうか。
今日は「カーディガンを手に入れに行く」のか。
ずいぶん楽しみになってきた。

わくわくしながら、駅に向かうガード下をくぐる。

2015年4月14日火曜日

「あてどない日常」に留まるには(後半)

あてどない散歩の最中に撮った写真。
(前編)の続き。

確固たるストーリーが崩壊した中でどう生きていけばいいか。
という話は、社会学などの方面では以前から議論されているみたいだ。

僕はその議論にはあまり詳しくない。

けれど最近ヒントのようなものは掴みつつあって、それは
「ここに窪みがあるから安心して足をかけられる」とか
「水の流れが急で不安だから左側からまわる」とか
「疲れてきてこのまま進むのは難しいから一旦岩場で休憩する」とか
そういう、ごく細かいレベルの具体的な確かさを手だてに
進んでいくことではないかと思う。

「何分後にはせめてあの岩場までは到達していたほうが云々」
「この靴を履いたほうがより効率的に云々」
「そもそも沢登りをする意義とは云々」
などと言う人が世の中にはたくさんいる。

こうした声にすぐに光明を見いだしたくなるので、
その声に全面的に倒れ込まないでいられるかが肝ではないか。
このあたりは以前書いた「僕の中の他人が言う」という言葉が役に立つ感じがする。

現代はあらゆることが相対化される「あてどない」時代だとすれば、
この「あてどなさ」を逆手に取った上で自分の足場を確保できたら、
「あてどない」ことに留まっていられるのではないか。

そして、「逆手に取る」ために必要なのは
恐らく時間的・空間的な空白や「無い」状態なのだと思う。
このあたりはまだうまく言語化できないので、
今後も引き続き確かめていきたいことでもある。

「無い」については、それぞれに微妙に力点や使い方が異なるものの
大谷さん・澪さんもブログに書いている。

 ■まるネコ堂ブログ ラベル:「無いの世界」
 ■山根澪のブログ「「ない」への道は、「ある」ことへの意識から。」

僕がこの1年くらいで関係性を深めた人たちは
仕事や、人との関わりや、物との関係など、
自分なりに暮らしの捉え直しを続けている人たちだと思う。

こうした中にいる人たちは、
表面に見えている「働き方」や「暮らし」は
「ほのぼの」「まったり」しているように映るかもしれない。
ドラマ『すいか』の登場人物もそう見える。
2003年当時はそう表現するしかなかったのだろうと思う。

けれど恐らく当人はそれぞれ、
ストーリーの強烈な引力を感じつつ
「あてどなさ」の中に足場を見つけて生きているはずで、
それが確固たるストーリーに該当しないからといって
「ほのぼの」「まったり」で形容されてはたまらん、
と言いたくなってしまったのだろうと思う。

※当初「「あてどない日常」を越えるには」とタイトルをつけていましたが、
 「留まる」方がしっくりくると思い変更しました。

2015年4月13日月曜日

「あてどない日常」に留まるには(前半)



ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ソラニン』を思い出した。
「例えば ゆるい幸せが だらっと続いたとする」昔よく聴いた。懐かしい。
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以前書いた記事
「ドラマ『すいか』を観た。地味な大事件を必死に生きる日常。」
の続きのような、続きでないような。
「日常をまったりと生きる」「ほのぼの」ドラマだというレビューを
たまたまwebで見つけたけれど、ぜんぜん納得いかない。
と書いたけれど、参照した記事が書かれたのは2003年9月。
 高度経済成長期も過ぎ、1999年で世界は終わらなかった。
当時の言い回しとしては、自然だったのかもしれない。

けれど、やっぱり「今」この作品を観て
「まったり」「ほのぼの」したドラマだとは
とても言い表せないような気がしている。

* * *

一般的には「東日本大震災以降、『終わりなき日常』が終わった」
みたいな話で語られそうな話でもある。
いつまでも続くと思っていた日常が、
突然断ち切られるかもしれないという状況。

もちろんそれもあるけれど、
僕にとってはやっぱり「仕事をやめた」ということが、
この一件に関してとてつもない影響力を放っている。

それまで信じていたものや頼りにしていたものが、
ある日を境に目の前からなくなってしまうような状況。

その状況下で、ストーリーに生きようとするのはとてもしんどい。

「今までこうだった『から』こうする」
「今までこうだった『のに』こうできない」とか。

このあたりの考え方は、大谷さんのブログから影響を受けている。

 ■まるネコ堂ブログ
 「【105】タイのインスタントラーメンを食べる。オーガニックとジャンクが同居するシーン。
 「【017】シーン先行型の暮らし

長くなったので、後半は後日。

2015年4月9日木曜日

ドラマ『すいか』を観た。地味な大事件を必死に生きる日常。

放送は2003年。
ちょっと時代を感じるwebサイトでダウンロードした壁紙。

TVドラマ『すいか』を全話観た。

僕は全く作品のことを知らなかったけれど、
友人に勧められて観てみたらすごく良かった。
これについて何か書きたいと思いながら、
ブログは下書きのままになっていた。

* * *

今日、帰宅して居間に行くとテレビがついていて、
「過去の凶悪犯罪捜査の再現ミニドラマ」みたいなのがやっていた。
画面の中では、薄暗い取り調べ室で年配の刑事が若い女性を問いつめている。
僕は冷えた身体をストーブで温める間にこれをぼーっと眺めていて、
ああなるほど、と思った。

バラエティー番組内の再現ドラマと連ドラを比べるのもどうかと思うけど、
この再現ドラマは「ストーリーに持って行かれるつまらなさ」の極みだ。

ごく短時間で事件の概要を伝えて、かつお話として成立させないといけないので、
「犯人が事件を起こし、逮捕されるまでの流れ」を中心に描くことになる。
その軸を中心に全ての登場人物が現れるので、
出てくる刑事も、犯罪者も、どこか輪郭がぼやけている。

この手のストーリーはもう飽和している感じがあって、
僕はあんまり楽しめない。

* * *

『すいか』にも「事件」的な出来事は起こる。
馬場ちゃん(小泉今日子)は勤めている信用金庫から3億円を横領し、
絆さん(ともさかりえ)は通り魔に遭遇して怪我を負う。

でもこういうのは本当に重要な「事件」としては描かれておらず、
基子(小林聡美)が中学生時代から続けていた100円玉貯金を使い切ったり、
絆さんがメロンを食べている父親の背中を目撃したり、
舞台になっている下宿「ハピネス三茶」を教授(浅丘ルリ子)が出て行ったり、
そういう一見大したことのない出来事が、よっぽど重要な事件だったりする。

そして、なぜそうした出来事が重要な事件たりえるのかを、
全10回を通して丁寧に描いている感じがする。
『すいか』はそういう作品だと思う。

「日常をまったりと生きる」「ほのぼの」ドラマだというレビューを
たまたまwebで見つけたけれど、ぜんぜん納得いかない。
登場人物は、それぞれにとっての地味な大事件を必死に生きている。

そういう住人たちが「ハピネス三茶」という場に出入りする。
中心軸になるような大きいストーリーはない。
すると一人ひとりの輪郭がくっきりと見えてくる。

この過程がとってもおもしろい。
いい作品を教えてもらったなあ。




2015年4月8日水曜日

死体に触れなかった。(続き)

大阪の四天王寺から西に歩いた時の写真。
『大阪アースダイバー』の舞台を歩いた。
どことなく、死の香りのする散歩だった。
本文とは無関係。

以前の記事「死体に触れなかった。」のつづき。

ある雨の日、駅に向かう途中。

僕の十メートルほど前を歩いていた女性が、
何かを避けるように右に逸れた。
正面に黒っぽい塊が見える。

近づくにつれ、イタチらしき動物の死体であるとわかる。

徐々に死体との距離が縮まる中、
僕は昨日、大谷さんが小鳥の死体を素手で取り上げていたのを思い出す。

死体の前で立ち止まる。

このまま置いておいたら、誰かが処理するのだろうか。
いや、誰かが処理しないと放置されたままではないか。
こういう時、役所の人が呼ばれるのだろうか。

右手には、雑草の生えた土の小道がかろうじてある。
自分で動かしてみようか。

これらが一瞬で頭の中を駆け巡り、
次の瞬間には、死体を横目に駅に向かって足を進めていた。

どうしてやってみようと思ったのか、
どうしてやめたのか、
そのあたりを書こうとしたけれど難しい。

義務感や、後ろめたさや、
いざ「触る」となったときの躊躇や、色々なものが混じっている気がする。
大谷さんのように「触れたい」という感覚ではないようにも思う。

もう何年も前に叔父が亡くなった時のことを思い出した。
生前ほとんど関わりがないまま、亡くなってしまった叔父。

葬儀の前夜、叔父の遺体と同じ部屋に親族が集まり、
特に何を話すでもなく過ごした時間が、とても豊かだった気がした。
人が亡くなっているのになにを、と言われそうだけど
「豊か」というほかない感覚だった。

「ああ、人は死ぬのか」と思った。

自分の力が到底及ばない、
どうがんばっても覆しようがない、
確固たるものに触れている感じがした。

遺体に触れたかどうかは覚えていない。
けれどなぜだろう、思い出した。

2015年4月7日火曜日

選んだリュックを背負う嬉しさ。

革と帆布が、いい感じ。

carapaceのリュックを買った。

本体の色は「カラシ」。
ポケットの色は「モカベージュ」。
写真では見えない内ポケットは「グレー」。

さんざん迷って、この色の組み合わせに決めて注文したのが2月頭。
3月末に完成したので、毎日背負って歩いている。

最近読み終わった本『ズームイン、服!』(坂口恭平)に
「服も身体の延長である」というニュアンスの一文があって、
なんだか分かるなあ、という気がしている。

4月から始まった、新しい職場での仕事。
最初の2日はスーツで出勤したけれど、どうにも慣れなかった。
通常はカジュアルな服装でも大丈夫と聞いていたので、
3日目からは私服の仕事着に切り替えた。

別に新しい服に袖を通すわけでもないのに、
前日は少しわくわくしながら眠った。

このリュックを背負って歩ける嬉しさも似ていて、
自分が自分でいられる、という感じがする。

このリュックを作る人たちと出会った自分。
このリュックを買うと決めた自分。
このリュックを使っていきたい、と思っている自分。

そういう自分を背負って、一緒に、
毎日歩ける気がしてくるのが嬉しい。


2015年4月3日金曜日

死体に触れなかった。

日も場所も違うけど、こんな感じのシチュエーション。
僕のほうが少し前を歩いていたと思う。

この間、駅に向かう道を歩いていたらイタチか何かが息絶えて倒れていた。
その前日、大谷さんが道で息絶えていた小鳥を拾って土のあるところに移動させたのを見ていて、ぼくもやってみようと思ったけれど、結局できなかった。

という話をしたら、そのことを大谷さんがブログに書いていた。
(まるネコ堂ブログ「【113】死体に触れたいと思うわけ。」)
「ぱーちゃんはなぜ自分も死体に触れようとしたのか」と書かれているのを読んで、「そういえば何でだろうな」と考えていたら書きたくなった。

あの日、つまり大谷さんが小鳥を拾った日、どう思っただろう。

ぼくの視界正面に入った路上の小鳥は、状況からして死んでいるだろうとわかった。少し気分と視線が沈む感じがあった。ぼくは視線を進行方向に戻しながら、後ろめたく思う気持ちで、もう一度小鳥のほうに視線を送った。

その時、ぼくの視界の左手隅で大谷さんが無言で立ち止まる。素手で小鳥を手に取り、すぐ左脇の神社の敷地に移動させる。

ためらうでもなく、「かわいそうに」と言うでもなく、ことさら悲しむでもなく、ぼくには大谷さんが「当然のように」一連の所作をおこなっているように見えたのが印象的だった。

通り過ぎるという行為を、「当然のように」、ほぼ自動的に選択している自分も同時に浮き彫りになった感じがあった。

眠くなってきたので、つづきをまた書きます。