2015年2月17日火曜日

個人として、場を引き受け切るということ

去年「モーニング・ミーティング」を体験した「上勝"少年"探偵団」。
ここでの「沢登り」の感覚も、ぼくの中に深く残っている。

去年の秋から、とある通信・単位制高校の授業を担当していた。

「自己理解」や「将来の生き方」がテーマで、1クラスあたり3回の授業を2クラス分。
10名前後のクラスで、およそ1ヶ月おきにぼくの担当回がやってくる。

今月はその最終回で、「モーニング・ミーティング」というのをやった。

これは、その場にいる人が「PROBLEM(困っていること)」「PLANNING(やりたいこと)」「SHEARING(分かち合いたいこと・きいてほしいこと)」の3つを出し合って、場をつくっていくというもの。特にあてはまるものがない人は、無理に出す必要はない。
もとは、アメリカのフリースクールで取り組まれているものらしい。

ぼくはこの1年間で2回ほどこれを体験していて、このタイミングでぼく個人として今回の仕事を引き受け切るにはこの方法がしっくりくる感じがあったので、やってみることにした。

実際にやってみるにあたって、小林けんちゃんから「仕事の現場で応用している」という話を聞いて勇気をもらっていたものの、かなり不安だった。

なにしろ、あらかじめ「出る」と予測される成果を示すことができない。

例えば「自分の10年後を想像して表現する」といったアクティビティに取り込んだ場合。
場にいる人が活動を放棄しない限り、必ず何らかの「想像した内容」は表現される。そしてその「想像した内容」自体は場に居る本人によって出されたものなので、「学び手が主体となって、自分の将来を考える機会をつくった」と言える。場のつくり手は、最大限その場にいる人がテーマに対して前向きに向かっていけるよう、取り組む作業内容やその順番・時間設定などに工夫をこらす。

いっぽうで今回の場合。
誰ひとり発言せず、90分が終わるかもしれない。誰かは発言したとしても「将来の生き方」とは全く違う話ばかりが出て、生徒から「何の意味があったんですか」と言われるかもしれない。担当の先生からは「自由にやってください」と言ってもらっているけど、本当に大丈夫だろうか。最悪、ぼくを紹介してくれた方にも、迷惑がかかるのではないか。

そんな気分で行きの電車に乗っていると、
「安心して発言しやすくなる効果が期待できるアクティビティ」を冒頭に入れようか…
場を開いたあと、ぼく自身が「PLANNING」に名前を書いて「それぞれの将来の生き方について聞かせてほしい」などとプランを提案してしまおうか…
こんな考えが、何度もよぎった。

でも、「違うな」と思ってやめた。

ぼくはこれまで、上に書いた前者の「自分の10年後を想像して表現する」ような場づくりのノウハウを学んできたし、こうしたやり方で引き出されるものも確かにあると感じている。そういう場にも立ち会ってきた。そして、このやり方ならある程度の場づくりができる自信もある。

でも、今回はどうも「前者の方法でいこう」という感じにならない。皆それなりに「将来の生き方」については言葉にするだろう。でも、「生き方」がテーマなのにも関わらず、ぼく自身の「生き方」が乗っかっている感じは一切しない。今まさに生きているぼくの「生き方」はちょっと後ろに置いておいて、安全なところからプログラムだけを投下しようとしている感じさえする。

これが組織として受けている仕事なら、事情は違ったかもしれない。
場のねらいと、組織の目的と、先生からの組織への期待との折り合いの中で、プログラムを選択したと思う。

でも、今回はそうではない。とすれば、ぼく個人というものを最大限出し切って勝負するしかない。ふだん「自分が自分として居ることの勝負だ」と思っているゼミや、持ち寄り食会を思い出す。自分を隠すものが何もない丸腰の緊張感の中で、「自分として居る」ことだけを頼りに、場をひらいた。

結果としては、「100%上手くいった」かどうかはわからない。
最後も「授業なので何か言わないと」という気持ちが起こって、喋りすぎたかもしれない。

でも少なくとも、ぼくが聴かせてもらった声はその人そのもの(まさに、「生き方」)が乗ったものだったと思う。初回授業では、ぼくがお題を用意して「将来の生き方」についてのテーマトークをしたのだけれど、その時よりもずっと生々しい、その人自身の質感をもった事柄が場に出され、それを分かち合ったような手応えがあった。

ぼくは決して、プログラムをあらかじめ用意しない「非構成的な場づくり」こそが正しい/正しくないとか、そういうことが言いたいのではない。

今回、ぼく個人として「生き方」をテーマにした場づくりを引き受け切って全力で返そうとすると、この方法を選択し切ること、「有る」ことへの誘惑に負けないこと、場に出された声に向かい切ること、こそが勝負所だった。

ということを、書き残しておきたかった。

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