2015年2月12日木曜日

「無い」ことによって初めて可能になる「触り直し」

この写真の選択に特に意味はない。
あったのは「横長で人物が写っていない写真」という基準だけ。

前の記事で、自分で髪を切ってみて発見したことについて書いた。一部引用。

自分の髪がどう生えているかが何となく分かる気がするので、切る過程がおもしろい。
もみあげや襟足は、ちょっとテクニックが要りそうとわかる。
量を減らすだけなら、案外自分でもできる。
でも、店のお兄ちゃんとはまた話したいなと思う。
なら、もみあげや襟足を整えたくなって、話したくなった時に行けばいいのだとわかる。
結果的に散髪代も少なくて済むのでうれしい。

このあとお風呂に入りながら、こういう、全く派手でもドラマチックでもない出来事におもしろさを感じて、いちいちブログに書きたくなるのは一体何なんだろうと考えていた。

「節約生活をする『ために』散髪代を浮かせる」という目的はない。
「できるだけ外部サービスへの依存を減らして暮らしたい」という理想もない。
「そこまで考えなくても、散髪屋くらい行きゃいいやん」とぼくの中の誰かが言うけれど、
そういう話では決してない。

ぼくは恐らく、あるものを一度解体して「触り直す」ということをしている。

「読書」も、「場づくり」も、「食事」も、「仕事」も、「持ち物」も。

「捉え直す」は聞こえはいいがぬるい感じがする。
「掴み直す」までいくと力強すぎる。
「触り直す」というくらい生々しい感じがしっくりくる。

そして最近、この「触り直す」作業は「無い」ということによってようやく可能になるのではという気がしている。

「無い」については大谷さんもブログに書いていて、会話の中にも度々登場する。ちょうど今ゼミで読んでいる『無縁・公界・楽』と『日本・現代・美術』にも通ずる部分が大いにあるとぼくも感じていて、少し言葉にしてみたい。

「有る」ことによる価値は説明がしやすく、
「無い」ことによる価値は説明がしにくい。

散髪屋に行けば、何も考えなくてもいい感じに仕上げてくれるし、店の人とも話せるし、そう言えば眉毛もきれいに整えてくれるし、蒸しタオルがこの上なく気持ちいい。

一方で

散髪屋に行かなければ、自分で切ることになるし、失敗するかもしれないし、自分でカットの技術を上げるのも面倒だし、それだったら散髪代を出した方が早い。

大抵の場合、すぐにこうなる。
でも、ぼくはこう考える。

「有る」ことによって、「意味」があらかじめ設定されたり、何かから投影されたり、別の場所から簡単に流れ込んですり替わったりする。圧倒的な「意味」の存在感の陰に「そのもの」の姿は霞み、ぼくたちは「意味」を受け取ることで納得しようとする。

「無い」ことによって、外からやってきた「意味」を一度引っ剥がすことができる。そこで露になった「そのもの」を直視して、その時はじめて自分のものとしてじかに触り直すことができる。

この「触り直し」ができる契機は、「無い」状態にしかない。

「予定が無い」ことが不安になって「予定を埋める」、
「時間が空いた」ので手持ち無沙汰になり「作業して時間をつぶす」。
すると埋まった予定や始めた作業を基準にして、自分も、周囲もほぼ自動的に駆動し始める。全てが「意味」の世界に回収される。

「無い」状態には、落ち着かなさ、不気味さ、暗さが伴う。

そのため、すぐに「有る」状態に変換し、「意味」を受け取りたい衝動に駆られる。
この「意味を受け取ろうとする無意味さ」を見破って誘惑にうち勝ち、「無い」状態に留まってはじめて、「触り直し」が可能になる。

予定が無い。ものが無い。お金が無い。仕事が無い。

ここまでくると、散髪屋に行く/行かないとは次元の違う、どうしようもない暗さが漂う。

でもこれを直視して「触り直し」をすることこそがおもしろい。
無根拠・無目的な今という時を生きるにあたって、確かなことだと感じられる。

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