2015年2月28日土曜日

「贈り物」の呪い

壁や畳も含めて「借り物」しか映っていない。
借りたものは返せばそれで終わる。

今朝、部屋の掃除をしていたらベッドの下に箱があるのを見つけた。

中身が思い出せなかったので開けてみると、
去年、部屋のものを処分したときに捨てきれなかったものが入っていた。

子どもの頃に遊んだおもちゃ、学生時代の教科書、人からもらった本。

おもちゃも教科書も、処分する・置いておくといった扱いを決めたけど、
「人からもらった本」だけが今ぼくの机の上に佇んでいる。

この間「贈り物というのは一種の呪いのような気がする」という話をしていて、
いよいよ本当にそうだという気がしてくる。

あげる側の意図する・しないに関わらず、
ものが目に入るだけで、その人を思い起こす。

「呪い」というと怖い感じがするけど、たぶん結婚指輪がわかりやすい例で、
お互いに契約を交わすことを合意していて、そのことが指輪に込められる。

この本は別に何の契約も込められていないし、
「くれた人」に対してネガティブな感情もないけど、
「くれた人」との関係がしみ出してくるように見える。
手をつけにくい。

たぶん前の片付けの時も扱いに困って、ひとまず見えない場所にしまったのだろう。
今日、またぼくの前に現れた。

実は他にも、見えない場所にしまってあるもらい物がある。
こうなると、もらい物が「ぼくの中に居座ってしまった」という感じがするので、
隠していようが見えていようが同じことだ。

ゼミで、マルセル・モースの『贈与論』を読むのが楽しみになってきた。

2015年2月25日水曜日

2月24日の景色



「就職先決まって良かったね」という
「めでたい」言葉が、ぼくを上滑りしていく。

まるネコ堂で流れる沈黙の時間に、
椹木野衣『日本・現代・美術』の一節に、
網野善彦『無縁・公界・楽』の一節に、
ゼミでのやりとりに、
無根拠・無目的な現代において生きていく根拠を感じる。

今は、そういう景色が見えている。

2015年2月24日火曜日

「仕事着」としてのチノパン。「ぼくの」ジーンズ。

最初は無難な柄にしようと思ってたけど、
今となっては、もっと派手でもいいなという気になってきた。

昨日、ジーンズを手縫いで繕う「ジーンズ・刺し子ワークショップ」に参加した。

ぼくにとってのジーンズは「数あるズボンの中の一本」という感じ。
特別な思い入れもなければ、取り立てて履かない理由もない、そういうもの。

そんな状態で参加する気分になったのはなんでかなーと考えていたら、年末に処分したチノパンを思い出した。

前の仕事をしていた時に、ほぼ毎日着回していた2本のチノパン。シルエットは良いのに膝の部分が窮屈だなとずっと思いながら、無印良品で同じ物を毎年惰性のように買っていた。もちろん、もっと身体に合ったものを探すこともできたんだろうけど、そうならなかった。

今思えば「仕事に適していると思われるシンプルな服」を着てさえいればOKで、「膝が窮屈」という感覚も半ばオフになっていた。そのために毎年お金を払い続けて、その状態を「変やな」と思いながらもそのままにしていた。

結局、このチノパンは仕事を辞めた去年の4月からぱったり履かなくなって捨てた。
処分する時に「いったいぼくは何を履いていたんだろう」というざらついた感じが残った。

これがどう関連するかは分からないけど、とにかくこういうことを考えていると、家にあるジーンズは「まあ今後も履くやろうな」という気がしてきた。それで参加することにした。

終わってみて、「お気に入りを繕った」というよりも「ぼくのジーンズが一本できた」という感じがする。

前までこのジーンズは「ユニクロのジーンズ」だった。年代物でもなければ、「長く使おう」みたいな気持ちも買った時は特になかった。

でも自分でどんな柄・色にするかを考えて、さんざん生地を触って、ちくちく縫い続けたジーンズを手にすると、そういうことがどうでもよくなった。

早く履いて歩きたい。

2015年2月21日土曜日

荷を降ろして身軽になる

以前は、部屋の壁にもいろいろ飾っていた。
こういうのもちょっと減った。

最近、身の回りを整理している。

たとえば、ポイントカード。
以前とは生活エリアが少し変わって、使わなくなったローソンのカード。
「いつか通りがかりで使うだろう」という、
来るか分からない瞬間のために持ち歩くのがあほらしくなってきた。
1,000円分のポイントをドリップコーヒーに交換して、
残った数百円分は帰り道のつまみ食いの足しにした。

たとえば、引き出しに眠っていた百貨店の商品券など。
「何か目的を持って百貨店に行く」ということをほとんどしないので、
「券を使うために」欲しくもないものを買ってしまいそうな気がしてきた。
100円ほど損する計算になるけど、チケットショップで現金に変えた。

たとえば、メルマガ。
特に商品紹介の類いは全然見ていないので、受信トレイをスキップして格納していた。
でも結局、ふとした瞬間に目に入ることがあってそれが気になるようになってきた。
目についたものからどんどん配信停止にして、使わないサービスは退会した。

たとえば、受信メールのフォルダ。
前の仕事関係、大学時代のゼミやサークルのものまで残っていて、非表示にしていた。
これもふと目に入るのが気になり始めて、メールだけ残してフォルダを消した。

こういうことをしていると、澪さんのブログのこの記事を思い出す。
「ある」から「ない」への道は強烈な「ある」への出会いから始まってきたように思う。あたりまえにアメーバーのように生活に溶け込んだ「ある」ではなく、輪郭を持った「ある」が見えること。それが見えるとやっと格闘できる感じがある。
ぼくは最近、不要な本とか資料といった物理的なものをどんどん処分していて
その時の感覚と重なるものを勝手に感じている。

ここまで処分したくなるのはちょっと病的だなぁと自分でも思っていて、
「そのうち部屋空っぽになるんちゃうか」と弟に笑われる。
でも一度「ある」と認識してしまうと、その強烈な存在感がなかなか消えない。

物理的なものに限らず、荷を降ろすと身軽になってすっきりするので、
とりあえずは気が済むまでやってみようかなと思っている。

2015年2月17日火曜日

個人として、場を引き受け切るということ

去年「モーニング・ミーティング」を体験した「上勝"少年"探偵団」。
ここでの「沢登り」の感覚も、ぼくの中に深く残っている。

去年の秋から、とある通信・単位制高校の授業を担当していた。

「自己理解」や「将来の生き方」がテーマで、1クラスあたり3回の授業を2クラス分。
10名前後のクラスで、およそ1ヶ月おきにぼくの担当回がやってくる。

今月はその最終回で、「モーニング・ミーティング」というのをやった。

これは、その場にいる人が「PROBLEM(困っていること)」「PLANNING(やりたいこと)」「SHEARING(分かち合いたいこと・きいてほしいこと)」の3つを出し合って、場をつくっていくというもの。特にあてはまるものがない人は、無理に出す必要はない。
もとは、アメリカのフリースクールで取り組まれているものらしい。

ぼくはこの1年間で2回ほどこれを体験していて、このタイミングでぼく個人として今回の仕事を引き受け切るにはこの方法がしっくりくる感じがあったので、やってみることにした。

実際にやってみるにあたって、小林けんちゃんから「仕事の現場で応用している」という話を聞いて勇気をもらっていたものの、かなり不安だった。

なにしろ、あらかじめ「出る」と予測される成果を示すことができない。

例えば「自分の10年後を想像して表現する」といったアクティビティに取り込んだ場合。
場にいる人が活動を放棄しない限り、必ず何らかの「想像した内容」は表現される。そしてその「想像した内容」自体は場に居る本人によって出されたものなので、「学び手が主体となって、自分の将来を考える機会をつくった」と言える。場のつくり手は、最大限その場にいる人がテーマに対して前向きに向かっていけるよう、取り組む作業内容やその順番・時間設定などに工夫をこらす。

いっぽうで今回の場合。
誰ひとり発言せず、90分が終わるかもしれない。誰かは発言したとしても「将来の生き方」とは全く違う話ばかりが出て、生徒から「何の意味があったんですか」と言われるかもしれない。担当の先生からは「自由にやってください」と言ってもらっているけど、本当に大丈夫だろうか。最悪、ぼくを紹介してくれた方にも、迷惑がかかるのではないか。

そんな気分で行きの電車に乗っていると、
「安心して発言しやすくなる効果が期待できるアクティビティ」を冒頭に入れようか…
場を開いたあと、ぼく自身が「PLANNING」に名前を書いて「それぞれの将来の生き方について聞かせてほしい」などとプランを提案してしまおうか…
こんな考えが、何度もよぎった。

でも、「違うな」と思ってやめた。

ぼくはこれまで、上に書いた前者の「自分の10年後を想像して表現する」ような場づくりのノウハウを学んできたし、こうしたやり方で引き出されるものも確かにあると感じている。そういう場にも立ち会ってきた。そして、このやり方ならある程度の場づくりができる自信もある。

でも、今回はどうも「前者の方法でいこう」という感じにならない。皆それなりに「将来の生き方」については言葉にするだろう。でも、「生き方」がテーマなのにも関わらず、ぼく自身の「生き方」が乗っかっている感じは一切しない。今まさに生きているぼくの「生き方」はちょっと後ろに置いておいて、安全なところからプログラムだけを投下しようとしている感じさえする。

これが組織として受けている仕事なら、事情は違ったかもしれない。
場のねらいと、組織の目的と、先生からの組織への期待との折り合いの中で、プログラムを選択したと思う。

でも、今回はそうではない。とすれば、ぼく個人というものを最大限出し切って勝負するしかない。ふだん「自分が自分として居ることの勝負だ」と思っているゼミや、持ち寄り食会を思い出す。自分を隠すものが何もない丸腰の緊張感の中で、「自分として居る」ことだけを頼りに、場をひらいた。

結果としては、「100%上手くいった」かどうかはわからない。
最後も「授業なので何か言わないと」という気持ちが起こって、喋りすぎたかもしれない。

でも少なくとも、ぼくが聴かせてもらった声はその人そのもの(まさに、「生き方」)が乗ったものだったと思う。初回授業では、ぼくがお題を用意して「将来の生き方」についてのテーマトークをしたのだけれど、その時よりもずっと生々しい、その人自身の質感をもった事柄が場に出され、それを分かち合ったような手応えがあった。

ぼくは決して、プログラムをあらかじめ用意しない「非構成的な場づくり」こそが正しい/正しくないとか、そういうことが言いたいのではない。

今回、ぼく個人として「生き方」をテーマにした場づくりを引き受け切って全力で返そうとすると、この方法を選択し切ること、「有る」ことへの誘惑に負けないこと、場に出された声に向かい切ること、こそが勝負所だった。

ということを、書き残しておきたかった。

f

「f」と打ち込む。

写真と文字が並ぶ。

下に向かってなぞる。
端に到達する。
一瞬詰まる。
ほどなく、次の写真があらわれる。

見覚えのある写真や文章が目に入る。

所在なげに漂う。

自分の名前をみる。
過去に書き残した文字が見える。

戻る。

数枚の新しい写真が見える。

下になぞる。
見覚えのある写真や文章が目に入る。

閉じる。

2015年2月16日月曜日

和室にて

東山の和室に寄った。

リュックを置いて
お湯をわかす。

湯のみで手を温める。

畳に寝転ぶ。

しばらく天井をながめる。


顔を上げる。

壁が夕日を受けている。

ため息が出る。






2015年2月15日日曜日

「自分の定めを見据える覚悟はあるかい」

去年の夏に行った徳島・上勝の山奥。
この一帯だけ、なぜかひんやりしていた。
まるでシシ神の森。

この間、「あるもの」を一度解体して「触り直す」ということをしている、と書いた

これは人との縁や人間関係についても同じことがいえると思っていて、ただこの場合は物質的なものの「触り直し」に比べて、一旦解体して引っ剝がすのにはかなりのエネルギーが要るとつくづく感じている。

「ぼくがこう努力すれば」「もう少し時間が経てば」「ひょっとしたらこんな風に変化して」とか、縁を保った状態のストーリーを色々想像して「そっちのほうがいい」という気分になる。「『意味を受け取ろうとする無意味さ』を見破って誘惑にうち勝」つ、なんて勢いに乗って書いてしまったけど、実際はなかなか手強い。「有る」ものの価値に目がくらむ。

でもいくらそんな風に想像したところで、もはや自分には抗いようがないというか、自分の力の及ぶ範囲を圧倒的に越えた何かの前に成す術もなく、うなだれるしかない。

今日、映画『もののけ姫』を久しぶりに観た。

冒頭、タタリ神の呪いを受けた主人公・アシタカが村を出るシーンを観ていてぼろぼろと泣いてしまった。巫女と「定め」について話し、髷を切るアシタカの表情は凛としていた。ヤックルに乗って駆け抜けるアシタカの奥には、とても奇麗な山々が広がっていた。

「そなたには自分の定めを見据える覚悟はあるかい。」
「誰にも定めは変えられない。だが、ただ待つか自ら赴くかは決められる。」
「曇りのない眼で物事を見定めるなら、あるいはその呪いを断つ道が見つかるかもしれん。」

巫女がアシタカに語りかけている。

2015年2月13日金曜日

2月13日の景色

朝、物置の私物を片付ける。

隣の部屋から弟が起きてくる。
廊下に、長年放置された段ボールが数箱目に入る。
ぼくがこれを片付け始めると、弟も作業に加わる。

「小さい頃に買ってもらった本は捨てにくいよな」
「せやなあ」と話す。

絵本と児童書の入った段ボールだけが廊下に残る。
「おお、廊下が通りやすい」と弟は笑う。

弟と昼食の相談をする。
彼は「生協のパン屋がおいしい」という。

ぼくは「この吹雪で外出るの面倒やな」とつぶやく。
弟は「でも美味しいパン食べれるならええけどな」という。
「確かにそやな」とこたえて支度をする。

外に出ると、吹雪はおさまっている。

リニューアルした古墳公園
移転してきた私立高校
廃墟になったスーパーの跡地

目に入るものの話をしながら、とぼとぼと歩く。

生協に着く。
のぼりの「挽きたてコーヒー」を、ぼくは「炊きたて」と読み違える。
弟が笑う。

パンのコーナーに行く。
「『ハイジの白パン』やって」ぼくはいう。
「それ前に買おうとして止めたやつや」弟がいう。
「まあ名前に魅かれるけど、普通のパンやしな」とぼくは返す。

それぞれ2個ずつ選び、
ウインナーのパンを2人で分けることを決める。
購入したパンを、持って来た手提げ袋に入れる。

ぼくは、切れてしまったゴミ袋を買いに売り場に寄る。

店を出て「レジの女の子が可愛かったわ」とぼくはいう。
「なんやそれ」と弟は笑う。
傘をさして歩き始める。

弟が「雪の時って傘さす意味あるんやろうか」という。
ぼくは「ささんかったらべちゃべちゃなるで」とこたえる。

行きと別の道を選んで帰る。

「15分かからんかったな」と言いながら家に入る。
弟は猫に向かって「ただいまー」という。

トースターでパンを温める。
「いやーおいしい」と言いながら食べる。

2015年2月12日木曜日

「無い」ことによって初めて可能になる「触り直し」

この写真の選択に特に意味はない。
あったのは「横長で人物が写っていない写真」という基準だけ。

前の記事で、自分で髪を切ってみて発見したことについて書いた。一部引用。

自分の髪がどう生えているかが何となく分かる気がするので、切る過程がおもしろい。
もみあげや襟足は、ちょっとテクニックが要りそうとわかる。
量を減らすだけなら、案外自分でもできる。
でも、店のお兄ちゃんとはまた話したいなと思う。
なら、もみあげや襟足を整えたくなって、話したくなった時に行けばいいのだとわかる。
結果的に散髪代も少なくて済むのでうれしい。

このあとお風呂に入りながら、こういう、全く派手でもドラマチックでもない出来事におもしろさを感じて、いちいちブログに書きたくなるのは一体何なんだろうと考えていた。

「節約生活をする『ために』散髪代を浮かせる」という目的はない。
「できるだけ外部サービスへの依存を減らして暮らしたい」という理想もない。
「そこまで考えなくても、散髪屋くらい行きゃいいやん」とぼくの中の誰かが言うけれど、
そういう話では決してない。

ぼくは恐らく、あるものを一度解体して「触り直す」ということをしている。

「読書」も、「場づくり」も、「食事」も、「仕事」も、「持ち物」も。

「捉え直す」は聞こえはいいがぬるい感じがする。
「掴み直す」までいくと力強すぎる。
「触り直す」というくらい生々しい感じがしっくりくる。

そして最近、この「触り直す」作業は「無い」ということによってようやく可能になるのではという気がしている。

「無い」については大谷さんもブログに書いていて、会話の中にも度々登場する。ちょうど今ゼミで読んでいる『無縁・公界・楽』と『日本・現代・美術』にも通ずる部分が大いにあるとぼくも感じていて、少し言葉にしてみたい。

「有る」ことによる価値は説明がしやすく、
「無い」ことによる価値は説明がしにくい。

散髪屋に行けば、何も考えなくてもいい感じに仕上げてくれるし、店の人とも話せるし、そう言えば眉毛もきれいに整えてくれるし、蒸しタオルがこの上なく気持ちいい。

一方で

散髪屋に行かなければ、自分で切ることになるし、失敗するかもしれないし、自分でカットの技術を上げるのも面倒だし、それだったら散髪代を出した方が早い。

大抵の場合、すぐにこうなる。
でも、ぼくはこう考える。

「有る」ことによって、「意味」があらかじめ設定されたり、何かから投影されたり、別の場所から簡単に流れ込んですり替わったりする。圧倒的な「意味」の存在感の陰に「そのもの」の姿は霞み、ぼくたちは「意味」を受け取ることで納得しようとする。

「無い」ことによって、外からやってきた「意味」を一度引っ剥がすことができる。そこで露になった「そのもの」を直視して、その時はじめて自分のものとしてじかに触り直すことができる。

この「触り直し」ができる契機は、「無い」状態にしかない。

「予定が無い」ことが不安になって「予定を埋める」、
「時間が空いた」ので手持ち無沙汰になり「作業して時間をつぶす」。
すると埋まった予定や始めた作業を基準にして、自分も、周囲もほぼ自動的に駆動し始める。全てが「意味」の世界に回収される。

「無い」状態には、落ち着かなさ、不気味さ、暗さが伴う。

そのため、すぐに「有る」状態に変換し、「意味」を受け取りたい衝動に駆られる。
この「意味を受け取ろうとする無意味さ」を見破って誘惑にうち勝ち、「無い」状態に留まってはじめて、「触り直し」が可能になる。

予定が無い。ものが無い。お金が無い。仕事が無い。

ここまでくると、散髪屋に行く/行かないとは次元の違う、どうしようもない暗さが漂う。

でもこれを直視して「触り直し」をすることこそがおもしろい。
無根拠・無目的な今という時を生きるにあたって、確かなことだと感じられる。

自分で髪を切った


夜。
ふと思い立って、部屋にある散髪用のすきバサミを取り出す。
リビングに行き、新聞の折り込みチラシを数枚持ち出す。
洗面所の流しに、チラシを敷く。
鏡の前で、いつものように、もみあげにハサミを入れる。

耳の上あたりのごわつきが気になったので、ここにもハサミを入れてみる。
ざくっ と音がして、もみあげの時よりも大きな毛の固まりがチラシに落ちる。
固まりを見ながら「ああ、案外切れるもんだな」と思う。

初めて、頭のてっぺんにもハサミを入れてみる。
また、ざくっ と音がして、大きな毛の固まりがチラシに落ちる。

なじみの散髪屋で、いつも
「長さはあまり切らなくていいので、量を減らしてほしい」と頼んでいたことを思い出す。

ハサミを入れる場所と角度を変えてみる。
やはり、ざくっ と音がして、毛の固まりが落ちる。

切る、ざくっ、毛が落ちる、を繰り返す。

母親が通りかかり、「散髪してんの」とぼくに聞く。
「うん、案外自分でも切れる気がして」とこたえる。
母は「くせ毛は便利やな」「こんなんもあるで」と、
初めて見るような散髪器具を洗面所の引き出しから取り出す。
うまく使いこなせず、器具を洗濯機の上に置く。

また、切る、ざくっ、毛が落ちる、を繰り返す。

鏡に、ずいぶん髪のボリュームが減った自分が映っている。
「散髪屋はまた今度でいいな」と思う。

チラシの上に、大きな毛の固まりが転がっている。
チラシにくるんで、ゴミ箱へ放り込む。
部屋に戻る途中、髪の間を空気が抜けるのを感じる。

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ぼくにとっての「散髪」はこれまで、2ヶ月に1回はするべきものであり、近所のなじみの理髪店に行くものであり、席に座っていつものように頼めば心配ないものであり、仲のいい理容師のお兄ちゃんと話すのを楽しむもの、であった。

その見方が変わった。

自分の髪がどう生えているかが何となく分かる気がするので、切る過程がおもしろい。
もみあげや襟足は、ちょっとテクニックが要りそうとわかる。
量を減らすだけなら、案外自分でもできる。
でも、店のお兄ちゃんとはまた話したいなと思う。
なら、もみあげや襟足を整えたくなって、話したくなった時に行けばいいのだとわかる。
結果的に散髪代も少なくて済むのでうれしい。

2015年2月11日水曜日

結果として存在感が際立ったニット

小学校の裁縫セットが今も現役。


 今日、虫食いの被害にあってしまったニットの穴を修繕した。

2年前くらいに買ったもので、今年の衣替えのときに穴があいているのを見つけた。「案外バレないのでは」と思って何度か着てみたけど、下に着ているシャツの色が穴を通して見えてしまう。他人はそこまで見ていないかもしれないけど、「穴に気づかれるのでは」と思いながら着るのがしんどくて、今年はほとんど着ていなかった。

そんなことを親と話していたら「ポケット部分をちょっと切って当て布にすればいけるかもね」という話になり、いつか試してみようと思っていた。

結果、けっこううまくいったと思う。

玉止めが下手で何度かやり直したけど、一見しただけでは穴があったとはわからないと思う(たぶん)。修繕した部分の境目が曖昧になって、糸が糸に溶け入ったみたいに見えておもしろかった。

修繕している最中、大谷さん・澪さんが始めたリュック屋さん「carapace」のwebサイトの一文を思い出していた。

化学繊維の布が破れたら、つくろってまで使い続けたいだろうか。
メッキがハゲると知っていて、使っていくことを楽しめるだろうか。

ぼく自身は特別「修繕することが好き」というわけではない。でも、これだけ部屋のものを減らし続けている最中で、今回はある程度の量の服も手放そうとしていたので、このニットの存在感が際立ってきた。繕いながら「ああ、この服着たかったんやなあ」としみじみ思った。

「今何してるの?」に対するカウンター



年末のゼミ合宿で読んだ『モモ』に、印象的な一節がある。

「時間どろぼう」である灰色の男たちは、主人公・モモの古くからの友だちを次々に「時間貯蓄家」にしてしまう。異変を感じたモモが友だちを訪ねることで、結果として灰色の男たちの邪魔をすることになる。それを快く思わず、モモを自分たちの術中にはめようとする灰色の男と、それに抵抗しようとするモモのやりとり。

「むだな骨折りはやめたほうがいいよ。」と彼は言いました。「われわれに立ちむかおうなんて、できるわけがないからね。」モモはあきらめませんでした。「それじゃ、あんたのことを好いてくれるひとは、ひとりもいないの?」と、彼女はささやき声でききました。灰色の紳士は背中をまるめて、きゅうにがっくりうなだれました。(ミヒャエル・エンデ『モモ』:128p)

この一節は、これまたゼミで読んだ『考える練習』の一節と通じる。

日本の自殺者は3万人になっています、世間はこんなに大変な状況です、ということに対するぼくの回答は、たとえば「カフカを読むことだ」っていうことになる。対抗すること、カウンターを出すことが遠回りだけど解決になると思う。(保坂和志『考える練習』:86p)

ぼくは去年の春から、「ぱーちゃんは今何してるの?」という問いとたたかい続けている。

たいていの場合、この問いには「次は何の(フルタイムの)仕事をするの?」「就活はしないの?(早めに動いた方がいい)」という暗黙のニュアンスが含まれていて(少なくともぼくはそれを感じ取っていて)、その都度「ちょっと一息ついてから考えようと思ってるねん」とか「知り合いからある仕事に声をかけてもらってて、どうするか考え中やねん」とか答えていた。

でも実際のところ、これは「本来あるべき場所に辿り着くまでの過渡期・移行期間」というニュアンスの返答であって、もっと言えば、そうした答えを期待する相手が安心する落としどころに向けた返答であって、自分としては全くしっくりきていなかった。

この問いに対しての、「それじゃ、あんたを 好いてくれるひとは、ひとりもいないの?」あるいは「カフカを読むことだ」に相当するカウンターはないものか、とずっと考えている。

…と、いうようなことを書きたい。

と思いながら、こたつに入って『モモ』と『考える練習』とノートパソコンを広げていた。

すると、また弟が部屋に来て「何してるん」とぼくに聞く。

「えーっと」少し考えて、ぼくは「本読んで文章書いてる」とこたえる。
「文豪みたいやな」と笑って、弟は部屋を出ていく。

弟が閉めた部屋のドアを見ながら、ぼくは「ああ」と思う。

「本を読んで文章を書いている」

これなら、一致している感じがする。
今度使ってみようか、という気分になってノートパソコンに向かう。


2015年2月10日火曜日

「ゴミになった屋敷」

今回処分すると決めた本の一部。


去年の10月に引き続き、自分の部屋のものを一気に処分した。

以前、実家を出て京都市内で暮らすかもしれないと記事の冒頭に書いたけど、やっぱりやめた。理由はまた書くかもしれないけれど、とにかくやめた。

「しばらく実家で暮らす」と決めたとたん、急に自分の部屋にあるものが気になり始めて、何日かに分けて整理した。

今回処分しようと決めたものたち。

CD・DVD約30枚、本・雑誌約40冊、衣類たくさん(大きめの紙袋一杯)、小物類、書類等。

前回もけっこう大胆に捨てたような気がしていたけど、今回見返してみると「なんで前回置いとこうと思ったんやろうか」と思うものもあっておもしろい。

数年前、旅行の時に買った観光ガイド本。
「また行くかもしれない」と思って前回残した。
でも行くことがあったらその時買えばいい。
そもそも、今後観光ガイド本を頼りにした旅行をするイメージが湧かない。
目的地が明確で、入念に下調べしたスタンプラリーみたいな旅行よりも、
その都度好きなように判断して方向転換するような旅がいい。

昔はまっていたドラマを焼いたDVD-R。
「好きな作品だから、また見るだろう」と思って前回残した。
「所有している」ということで「この作品が好きな自分」を保っていた気もする。
でも実際にはこのディスクをプレーヤーに挿入したことが一度もないし、
本当に見たければ、然るべき所でレンタルするなり探すなりすればいい。
試しに動画検索してみたら、いっぱい出てきて笑った。

大学を出てから買った本。
先進的なまちづくりの実践紹介、「ソーシャルな子育て」を特集した雑誌、
効率よく仕事を進めるためのノウハウ本、などなど。
前回は「まだ関心の範囲内」「また出番があるかも」と思ってあまり迷わず残した。
でも本に関してはゼミの影響でずいぶん考え方が変わっていて、
本や著者との格闘を経て、強く存在感を放つようになった本こそ迷わず「残そう」と思える。
関心が変わってきているというのもあるけど、この基準でいくと劇的に本が減った。

一方で「いらんだろう」と思いながら手放しきれず、ぶざまに残り続けているものもある。

美術館の展覧会図録。ほとんど読んでない大判の漫画。
中学校の部活時代のウインドブレーカー。などなど。
あと他人からもらったものは捨てにくい。これはけっこう大きな壁かもしれない。

とは言っても「減らすことが全て」と考えているわけではなくて、処分するもの/残るものが明確に見えるので、どうして前回残ったのか、今回も相変わらず残っているのか…と考えていく過程そのものがおもしろい。

ここまで書いていたら弟が部屋に入ってきた。
処分する予定の本や書類の山を見て、彼は「うわぁゴミ屋敷や」と言った。
「でも元々、全部この部屋にあったものやけどな」とぼくが言うと、
「じゃあ『ゴミになった屋敷』やな」と返してきた。

新語誕生。おもしろい。

2015年2月9日月曜日

「ただ、とにかく食事をする」ということが嬉しい

年明けのゼミ。火鉢で餅を焼いて、ぜんざいをいただいた。
美味しかった。

よく遊びに行く友人の大谷さん、澪さん宅の「まるネコ堂」。
ごはんをご一緒させてもらうことも多くて、とにかく、ごはんがおいしい。

「このルッコラ庭で取れてん」「へー」と話しながら野菜を切る。
「ああー、ええ臭い」と言いながらにんにくと鷹の爪を火にかける。
おろしたチーズをつまんで「うまっ」と言いながらパスタを茹で上がるのを待つ。
盛りつけ後は黙々と、一心不乱に食べる。
たまに「うまいなぁ」と声がもれる。
食べ終わって、「ああ美味しかった」と言って箸を置く。
一息ついて、使った食器や調理器具を洗う。

いつも「ああ、食事をした。」という満足感が残る。

もちろん、この満足感にはどんな食材をどこで調達しているかも大きく影響していて、
それもお二人の試行錯誤の結果だと思うのだけれど、それだけではない気がしている。

「料理のレパートリーを増やすために、あのレシピに挑戦しようと思っている」
「せっかく外食するなら、食べログ評価の高い店に行きたい」
「フェアトレードの食材を選んで公正な社会づくりに貢献しよう」
「栄養バランスの偏らない食事をしたほうがいい」
「朝食をきちんと取って、元気よく1日を過ごそう」

こういう「食」にまつわる思想や嗜好とは位相が異なっていて、
「ただ、とにかく食事する」という感じがいいなと思う。

こういう思想や嗜好に身を任せれば任せるほど、
「食事をする」ということ自体がぼやけて、遠ざかっていく感じがある。

「おいしいおいしい」と言って、ただ、食べる。お腹が満たされる。
最近、「食事をする」とはこういうことだな、と感じ始めている。

2015年2月4日水曜日

無念だとしか言えない

猫は「無念」とか思うことはないのだろうか。

最近「とある場に誘ってもらった」という出来事があって、そのことをこんな風に書いた

とても行きたいけれど、用事でフル参加できない。夜から行けば顔は出せる。でも途中から行っても自分としてどう居ていいか分からないし、無理をする感じが気にかかる。でも行けば何かあるかもしれない。ここで行くかどうか。

結局この場には行かなかった。

この「行かなかった」ことをぼくは先の記事の中で「勝った」と表現した。「どう居ていいかわからない」「無理をする感じが気になる」という自分の居どころを掴めたこと、それに忠実に動けたこと、そんな手応えについて書きたかったのだと思う。

しかしこの場に参加した大谷さんと話をしていて、実際にはぜんぜん勝ってなんかいないと思い知った。むしろ勝負から逃げていた。

大谷さんはこの場に「勝負をしにいく」と言って出かけたそうだ。ぼくも、そんな感覚があった。この場は自分にとって大事な勝負になる、そんな気がしていた。

でもぼくは結局行かなかったのだ。予定もやりくりできず、どんな顔をしてリングに上がればいいかがわからず、途中出場もしなかった。不戦敗だった。

そして、あろうことか「勝った」みたいな顔をして記事を書いたことがどうしようもなく恥ずかしい。

もう、無念だとしか言えない。

2015年2月3日火曜日

インドカレー屋の30分

カレー屋を出てからの散歩のほうが、
よほどいい時間だった。


何日か前の負け戦の記録。

カレーの味が、とか、店員の態度が、とかいう話ではなく
「カレー屋に入った」という時点でもう何かがズレ始めていた。

この日感じていた疲れやストレスを正面から受けとめきれず、
「カレー屋で食事をする」ことを通して和らげようとしていた。

結果としては別に和らぐことはなかった。

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昼頃。ビルの階段を上がり、2階のインドカレー屋に入る。
奥のテーブル席に座る。

店員が水を運んでくる。
店先の看板で目にした「日替わりカレーのランチセット」を注文する。
「カレーの種類は何だろう」と思う。
特に店員から説明はなく、そのまま店員の後ろ姿を見送る。

カバンからiPhoneを取り出す。
「きっと飛んでないやろうな」と思いながら、公衆wi-fiを探す。
案の定接続できる電波はなく、画面をただ何度か指で横になぞって机に置く。

テレビの音が聞こえる。
「殺害されたジャーナリストの母親がコメントを発表した」とキャスターが話している。

店内に大きな話し声が響く。
インド人らしき店員同士が、恐らくインドの言葉で話をしている。

スープが運ばれてくる。
何のスープか聞き取れなかったが、聞き返さず飲む。
カレーが来るまで残しておこうか、と考えて手を止める。

別の店員がにやにやしながら近づいてくる。
店員がぼくのスープカップに手を伸ばす。
まだ中身が残っているのを見て「オゥ、ゆっくり飲んでください」と言って去っていく。

しばらくして、同じ店員が「オイシイカレー、オイシイカレー」と言いながらカレーとナンの乗った皿を持ってくる。
ぼくは「これ何ですか」と2種類のカレーを指差して店員にたずねる。
よく聞き取れなかったが、「ほうれん草鶏ミンチカレー」と「野菜カレー」だと解釈する。

「野菜カレー」には、薄く切ったマッシュルームとグリーンピースが入っている。
「ああ」と思う。
「野菜カレー」を「片付ける」ような気分になりながら食べる。

「野菜カレー」を食べ終わる頃には、ナンが冷めて固くなっている。
机にナンのくずをこぼしながら、冷めた「鶏ミンチカレー」を食べる。

食べ終えてレジに向かう。

料金を支払った後、「レシートください」と伝える。
店員の動きが止まる。
店員はもう一度レジのボタンを押す。
ぼくの精算分のレシートが、前の客のレシートを押し出しながら出て来る。

レシートを受け取り、「ごちそうさまでした」とつぶやいて店を出る。