2015年3月21日土曜日

河原と『ドキュメント72時間』にみる「辺境」と「中心」

四条大橋は少し騒がしい。
三条から北あたりがちょうどいい。

河原が好きだ。

最近、川のほとりでおにぎりを食べたり、散歩したりする機会が増えた。
この前は、友人と河原で平日の昼間から飲んだ。

今日は予定がひとつ流れて、部屋に居たくなかったので家を出た。
ぷらっと歩いて、近所の河原に行き着いた。

河原は、特に理由もなく、ただそこに居られるというのがいい。

ぶつぶつ言いながら木の棒を振り回すおじさん、
いちゃつくカップル、お弁当を食べる女性、
鳥に餌をやり続けるおじさん、外国人らしき観光客。

昔「河原者」と呼ばれた屠畜や皮革加工に携わる人達が、
のちに差別の対象となっていった歴史がある、という話を思い出した。

最近ゼミで読んだ『日本・現代・美術』(椹木野衣)の中に、
近代という時代は「絶対性や中心性」を失った「素性のなさ」が特徴である、
という趣旨のことが書かれていたのを思い出した。
神も王もいなくなり、西欧のように自分たちで「自由」や「平等」を勝ち取った歴史もない。
寄って立つ根拠も、目的も失った、あてどのない時代。

ぼくは最近、吸い寄せられるように河原に行く。

* * *



NHKの『ドキュメント72時間』も好きで、最近毎週観ている。
これも、河原が好きな理由と似ている。

72時間、同じ場所にカメラを置いて定点観測し、
そこに行き交う人に話をきく、というだけの番組。

新宿のハローワーク、北海道の学生自治寮、
秋田の漁港にあるそば・うどん自動販売機前、
高円寺の銭湯、国道16号線、郊外のガソリンスタンド、
日本最北端のバス停前、青森の恐山…。

取り上げられる場所は、いつも「中心」というよりも「辺境」。

娘の部活の試合の応援に行く途中でガソリンスタンドに寄ったシングルマザー。
営業の疲れを癒すために銭湯に来た、大道芸人夫婦。
若い頃に母親の看病のために漢方を学び、
母が亡くなった今も、毎日国道16号線沿いの野草を採集し続けるおばあちゃん。

「辺境」の土地に張り付くことで、
行き交う人それぞれの「中心」が、ほんの一瞬垣間見える。

そういえば番組のテーマ曲も『川べりの家』。




* * *

「辺境」は、自分が居る場所とは別に「中心」があると想定したときに立ち現れる。
しかしそのような「中心」はあるようで、実際にはない。
あるいは、最大公約数としてのバーチャルな「中心」はあるのかもしれない。

でもそこは、自分の居どころとぴったり重なりはしないので、少しだけ位置がずれる。
自分がどこに居るかを確かめることによってでしか、ほんとうの「中心」は見えてこない。

「辺境」にこそ、「中心」がある。




0 件のコメント:

コメントを投稿