2015年3月30日月曜日

自由と責任の話。

まるネコ堂ゼミは、校舎もカリキュラムも単位もない
「大学」ではないか。

「自由にはそれなりの責任が伴います」という言い回しがある。
以前からこれを聞くたびに、ずっと気持ち悪いなと思っていた。

最近その「気持ち悪さ」の正体が見えてきた気がしている。

この一文を読み替えると、
「ぜひ自由に振る舞ってください。ただし、責任は自分自身で取ってください」となり、
もう少し続くとすれば
「もし何か起こっても私は責任を負えませんので、あしからず」となる。

このように言われる空間の中で、
人は自由に振る舞うことができるだろうか。

おそらく難しい。

* * *

「自由に振る舞う」ということについて考えるとき、
僕はゼミや、持ち寄り食会や、仕事の会のことを思い出す。

大谷さんの言う「場が壊れることをも厭わない言動」や、
小林けんちゃんの言う「丁寧で、ちゃんとした自分勝手な振る舞い」は、
ゼミや食会における参加者の「自由」な言動をとても的確に表現している。

 ■まるネコ堂ブログ「【118】ファシリテーターでない者の責任は、場が壊れることをも厭わない言動。」
 ■小林健司のブログ〜円坐のように生きる〜「寄ってたかって本を読む、まるネコ堂ゼミが面白い。」

大谷さんは上記のブログの中で、ファシリテーターを
「命がけで場を守っている人」と表現している。
それに対してファシリテーターでない者の責任は
「自分の言動によって場が壊れることをも厭わない」であるとしている。
それらが同時に存在することで、誰も予測のできないことが起こる。

命がけで守ろうとする人と壊れてもいいから全力で振る舞う人が
同時に同じ場に存在するというのは、
矛盾するような気もするけれど、
いや、文字通り、完全なる矛と完全なる盾の勝負なのであって、
だからこそ誰も想定できない状況が出現しうるのだろう。
—まるネコ堂ブログ【118】ファシリテーターでない者の責任は、場が壊れることをも厭わない言動。

これこそがゼミの面白さであって、
こうしてそれぞれがブログに書いたものを読み合っていく中で
「ゼミのおもしろさ」が言語化されていく過程自体もまた面白い。

ちなみにゼミではおそらく、
本そのものや著者が「命がけで場を守る」機能を果たしている。
だから、著者が自分の存在をかけて書いたような本でなければ、
ゼミは成立しにくいと思う。

* * *

「自由にはそれなりの責任が伴います」

これを言う人が守っているのは
「場」ではなく「自分」であるという気がする。
「たとえ場が壊れても、私の責任ではありません」と。

この一文が発せられた空間には、
本当の意味での「自由」は実現しないのではないか。

場にいる人はおそらく、それぞれに自分を守るために萎縮したり、
当たり障りなく振る舞ったりするだろう。

「自由に」と言いつつ、かなりの可能性で「自由」にはならない。
そして恐らく、場が壊れるとも考えにくい。
なんだか、ずるい。

円坐やゼミの前口上で冒頭の一文を述べられたりしたら、
肩すかしをくらってしまうと思う。

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