2015年12月30日水曜日

毎回同じ場所にやってくる

何度か書いたブログの下書きを消しては書き、消しては書きしている。このあと昼過ぎに大学の友人と会う予定で、それまでになにか書き留めておきたいという気分になっているのだと思う。今いる公園はとても気持ちがいいとか、最近家とはなにかを考えているとか、この間終わった吉本隆明を読むゼミのこととか、浮かびはするけれど文章にならない。文章になってもこういうことが書きたかったのだろうかと思ってやはり消してしまう。

ほうっておくとすぐに何者かになろうとしてしまう。隣の人と自分とを見比べて、ああなんて自分はできないんだとか、こうなるにはどうしたらいいんだろうとか、そういうことを考え始める。昔自分ができたことを思い返して、きっとあれが出来たのはああいう条件があったからだとか、じゃあ今度またできるようにするためにはこうしたらいいんだろうとか、そういうことをすぐに考え始める。

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読むゼミがこの間終わった。これを読んでいる期間はぼくはさっき書いたようなことの渦中にいた。渦中にいたということがわかって今それについて書いている。

ああまただ、と思う。その都度目の前に起こることに対して自分がどういう反応をしているかということでしか何かができない。本当ならもっとこうなのに、とかこうなればもっといいとか、そういうことに翻弄される動きの中にはなにもない。すぐにそのことを忘れて、その中に入っていこうとする。こういうことが自覚できたときはとても視界がクリアになる感覚と裏返しの孤独を感じる。

けれどこの孤独は妙なあかるさを伴う孤独だ。この感じがあって初めて、他人と一緒に居るとか何かをするということができるようになる気がする。またここか、というこの感じを得るときは毎回同じ場所にいるのだけれどその都度初めて来たような新鮮さと、そしてもう二度と来ないのではないかと思うような確かさがある。

うんざりしながら、気持ちがいい。

2015年12月22日火曜日

京都銭湯レポート(2)玉の湯



【玉の湯】

▪︎場所:地下鉄京都市役所前から徒歩5分くらい(京都市役所の裏)
地図等はこちら(公式サイト)から

▪︎定休日:日曜

▪︎営業時間:15時〜24時

▪︎番台
・オーナーご夫婦(若め)がいることが多い。

▪︎脱衣所
・おそらく、女性側の脱衣所は番台横に仕切りカーテンがあって番台からは見えにくくなっている。
・トイレは男女別で脱衣所直結。
・飲み物、タオル、下着まで売っている。
・ドライヤーは有料。

▪︎浴槽
・サウナあり。

▪︎客層
・お年寄りから若い人まで、いろいろ。

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柳湯が閉まっているときは、大体ここに来ます。

下着が売っていたり公式webサイトやTwitter・Facebookアカウントがあったりして、
初めての人にも優しい感じがします。

2015年12月21日月曜日

京都銭湯レポート(1)柳湯

最近銭湯に行く機会が格段に増えたので、京都(とくに京阪三条界隈)の銭湯をレポートしていきます。京都の銭湯に関する「見て楽しむ」系の気の利いた情報はこういうサイトがあるのでいいとして、「入浴する場所」としての基本的な情報を載せたいと思います。



【柳湯】

▪︎場所:三条京阪から徒歩5~10分くらい
地図等はこちらから

▪︎定休日:月曜、火曜

▪︎営業時間:16時〜24時

▪︎番台
・基本的におっちゃんが2人。
・おっちゃんはだいたい男湯側の脱衣所に座っている。
・おっちゃんの愛想がいい。

▪︎脱衣所
・男性側の脱衣所がオーナーさんの居住スペースとつながっていて、トイレを借りるときはそこを抜けないといけない。コタツとテレビがあって生活感満点の部屋を通り抜けるので、友達の実家にお邪魔している感がある。男性の脱衣所を通らないといけないので、女性は大変かも。
・ドライヤーが無料で使える。

▪︎浴槽
・水風呂を入れて4つ。
・サウナなし。

▪︎客層
・地域の人と思しき人が多め。お年寄り多め。
・たまに観光客っぽい若い人もいる。

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立地的な関係もあって、いちばんよく行っています。

脱衣所にはテレビや飲み物販売もなく、
電気風呂や日替わり湯、ジェットバスみたいなものもなく、
でもそういうのがシンプルで、「ただ、お風呂」という感じがしていいです。

近況

・ブログのタイトルをどうしようかと考えている。ずっと本名を冠して書いてきたんだけれど最近「これは本名では書きづらいな…」と思うこともあってちょっと窮屈だ。このブログを書き始めた頃、本名は明かさず始めようかとも思ったけど「何を恐れている、本名で勝負してなんぼだ」みたいに思っていた。最近は名前は看板みたいなもので、看板を架け替えることで書こうと思うことが書けるなら別にいいのではという気もしてきている。けれど適当なタイトルとかペンネーム的なものも思いつかない。

・以前は純粋にその行為自体が面白いと思っていて、最近それが「しないといけないこと」に見えてきていてちょっとしんどい。具体的にはゼミの本を読むとか、ブログを書くこととか。「あーしないといけないと思ってるな、別にできなくてもいいから気楽にやろう」とただ思えたらいいんだけど「しないといけないと思ってる状態はよくない」という風に思っているふしがある。「今も純粋におもしろいと思っていると思いたい」みたいに固執する感じがあるのだと思う。「自分はこれをやっていたらもう大丈夫だ」と思えた瞬間みたいなものが過去にあって、それにすがりたいんだけれどそうはいかない、ということを認めたくないのだろう。

・やっぱり東山の和室は立地がよい。徒歩5分かからずに大きめの図書館と公園に行けるし、10分くらいで鴨川にも銭湯にも24時間営業のスーパーにも行ける。イオンにも徒歩5分で行けて、こっちは夜9時に閉まるけど売ってる商品が安くて重宝する。改修していた京都会館が1月には「ロームシアター京都」としてすぐ近くにオープンする予定で、ここにはスタバと蔦屋書店が入る。うまくいけば図書館になかなか入らない新しい本とかもここで読めるし、コンビニも入るみたいで、なんだか都合が良すぎて笑える。都市的なインフラがこれでもかというくらい整っている。

・人に期待されるということは疲れる。自分で言うのもどうかと思うけれど、ぼくは子どもの頃から人の期待にうまく応えることで自分の立ち位置を保ってきた部分があって、今でもわりとうまいこと人の期待に応えることはしていると思う。けれど期待をかけられすぎたり無理に応えようとし始めたりすると一気にバランスがおかしくなることもわかっていて、そうならないように注意を払うのに疲れる。期待に応えた瞬間というのは気持ちがよかったりもするので、期待に応えることと応えないことの両方で自分の立ち位置を保つみたいなとても微妙な線のことをやっているような気がしている。

・ここまで書いたようなことは今日、銭湯に入る直前にむくむくと書きたくなっていて「これお風呂入ったら書く気がどっか行きそうだな…」と思っていたら案の定そうなった。夕食をとってだらだらとネットを見ながらどうしようもない気分になってきて、味噌汁を飲んで一息ついたら書き始めた。こうやって書くと一旦立ち止まるので、またなんとかやれそうな気がしてくる。

2015年12月12日土曜日

最近余裕がない(2)

前の記事の続き。

ギアが上がり続けているときはなんというかあまり記憶がない。時間が過ぎるのがすごく早く感じて、「もう2週間も経ったのか」とか思ったりする。けれどもさっき書いた「寄る辺なさ」とか「根拠の不確かさ」みたいなものは感じ取る余地がなくて、そういう場所が別のもので塗り込められていて、そういう不確かなものが見えない。

不確かなものが見えないというのはあながち悪いことばかりでもなくて、不確かさからくる不安みたいなものは感じなくて済むし、外からの刺激もあって面白かったりする。だから「こういうのもありか」とか思うのだと思う。

でもやっぱり本当におもしろいことというのは、そういうどうしようもない寄る辺なさとか不確かさをひりひりと感じながらそれでも何かしている時なんだろうなと考えたりする。

「やりたいこととかあるんですか」と聞かれると最近いつも困っていて、結婚しますとか起業しますとかこういう業種の仕事をしたいんですとか、そういうことを言える気が全然しないんだけれど、「寄る辺なさに浸ろうと思います」なら言える気がする。でも言ってもおそらくあまり理解されないんだろうなと思う。

寄る辺がないので、その状態で何が起こるとか何をするとかそういうことが言えない。けれど寄る辺がないことで起こる何かみたいなのはほぼ確実といっていいほどあって、それはちゃんと寄る辺がなくならないと起こらないような気がしている。

2015年12月11日金曜日

最近余裕がない(1)

最近余裕がない。

例えば朝がつらい。寝ても全然寝た感じがしなくて、アラームの音で目が覚めてもできるだけ横になっていたくて家を出る20分前になんとか身体を起こして支度したりしている。

あとは帰ってくるのが遅い。前にやっていた仕事と比べれば早いほうなんだけれど、今のぼくの感じからすると遅い。前はこの時間からもうひと仕事やっていたとかちょっと考えられない。

外食も多くなった。少し前はまだちょっと余裕があって、「おっ、今外食したくなってるということはこれによって何かを解消しようとしてるな」とか俯瞰して自分を見れてた感じがするんだけれど、最近は「もうだめだー」みたいな感じでふらふらと店に入ったりしてしまう。

「余裕がない」というタイトルで何か書けるかもという気になっていて、「余裕がなくてつらい」ということももちろんあるんだけれど、その反面「つらさ」とはまた違う感じも混じっているぞということに薄々と気がつき始めている。

それは何というか、身体は疲れていてどう考えても移動中のバスに乗っている自分の目は死んでいたりするんだけれども、そういう状態がある一定期間続くとその状態が普通になっていて、それでもなんとかなっているということが普通になってくる。

これはさっき書いた外食のあたりに顕著に表れていて、「外食によって何かを補填しようとしている」ということを自覚的に面白がれている状態と、そうでない状態というのがずいぶん違う気がする。前者の感じだとあくまでベースは自分のギアの段階にあって、必要に応じてギアを上げて走って、必要がなければまた落とせている感じだ。けれど後者の状態だとギアが上がった状態でずっと走り続けていて、そのまま食事したり寝たり起きたり仕事をしたりしている。エンジンを切ったつもりでも、そのままの勢いですーっと移動し続けている。

この後者の状態はある一定期間を越えると妙に身体に定着する感じがあって、例えば肩の重い感じがずーんと常にあるのが当たり前な気がしてきたりする。こうなると「しんどいから休みたい」とかそういうのともちょっと違ってきていて「まあこういうのもありか」という気分に不思議となってくる。

そうでない状態、ギアを自分で上げたり落としたりできているときはもうちょっと違う感じで、得体の知れない寄る辺なさとか根拠の不確かさみたいなものがふと押し寄せてどうしようもなく不安になったりしてそこら辺を徘徊したりしている。こういう時はもうどうしていいかわからなかったりするし、はたから見るとちょっと危ない感じがするんだろうけれど何か問題があるという感じはしなくて、自分の中の時間がただ流れているという感じがする。


2015年11月16日月曜日

独り笑う人

やっぱりここじゃなかなった、ということを確かめるためにやってるんだ

と独り河原でつぶやく。
へへへへ、と独り不気味に笑う。

「今度こそ、ここには何かあるんじゃないか」と思いながらするというのとは決定的に違っているということがわかっただけでもじゅうぶんだ。

ようやくここにたどり着く。

「東山の和室」を出たときは漫然と、とりあえず散歩に出た。
決めないといけないことがあって、それについて考えようとしている自分に気がついて、けれど考えようとしている時点で何か違う風になりそうだということに気がついている。

この視点ではどうだろう、あれについてはどうだろう、という風にチェックリストを埋める感じに思考が働き出すと、その先には何もないどころか何かおかしなことになるということに気がついているので、そういう思考になりかけるのを自覚しながら、とりあえずコンビニに寄って用を足す。

発泡酒を買って河原に出て、飲みながら煙草を吸う。七輪の火を眺めているみたいだ、と思いながら対岸の店の灯りを眺めながら、チェックリストはだんだんとその影を潜めて酒と煙草の効果で意識がぼんやりと霞んでいく。

するとなんとなく浮かんでくる何かがあって、それは友人から勧められてついさっき観た『おもひでぽろぽろ』のシーンだったり、職場で過ごしている会議の場面だったりする。
流れるままに頭と身体を任せていると、冒頭に書いたような言葉が口をついて出てきていて、ここでぼくは初めて独り言を言う。

独り言として勝手に出てきたという時点でもうぼくにとっては説得力があって、根拠とか理屈とかを越えてもう事実として存在してしまったのでどうしようもない。その事実を目の前にして、へへへと笑うしかない。

ここまでくると、独り言として出てきたことについてもう少し探求したくなってコンビニに戻ってチューハイを買ってもう一度河原に出る。2ラウンド目のスタートだ。

ぼんやりした視界と妙に冴えた感覚、ここだけ押さえていられるならあとはどうとでもなるという感覚が同居しているのを感じながら、独り探求をすすめる。

ここでやはり「もうじゅうぶんだ」というところにたどり着いて、立ち上がる。ふらふらと歩きながら自販機の脇のゴミ箱に缶を捨てて、和室に向かって歩く。端から見たら危ない人なんだろうと思いながら、身体が冷え切っていることに気がついて、帰ってコーンスープを飲んでこのことを書いてしまえばもう完璧だという気分になっている。

帰ってきてこうして文章に残しているということによって、ぼくは今存在している。

2015年10月28日水曜日

東山の和室生活・レポート

「東山の和室で一ヶ月生活する」と言い始めて、ほぼ一ヶ月が経とうとしているので、気がついたことをメモしておこうと思います。

◾︎夜寝るのが早くなった。
和室に帰ってきてごはんを食べて銭湯に行ったり行かなかったりして、たいてい10時半とか11時には眠くなって寝てしまう。実家にいるとだいたいネットをだらだら見ていたりするので、たぶんこれはインターネットがつながっていないことの影響が大きい。

◾︎寝袋でも案外寝られる。
1ヶ月過ごすとなると、耐えきれなくて布団を搬入したくなったりするのではないかと思ったけれど予想が外れた。案外寝袋でもしんどくない。むしろ問題は枕で、頭が床についた状態だとものすごく眠りにくい。しばらくは着替えや荷物を枕代わりにしていて、途中で座布団を折って枕にするようになってとても快適に眠れるようになった。

◾︎料理をしようという気にならない。
この一ヶ月で買った食材は、米、パスタ、パン、うどん、梅干し、ふりかけ、トマト缶、レトルトカレー、麻婆豆腐の素、豆腐、納豆、卵、シリアル、牛乳、飲むヨーグルト、チョコレート、惣菜類(揚げ物)、コーンスープ、即席味噌汁、ドリップコーヒーなど。冷蔵庫がないので、長期保存できるか、応用がきいて確実に食べるものしか買っていない。「カレー食べたい」と思っても野菜や肉を買っても保存できないという感じが先に立って、レトルトばかりになる。料理するには、もう少し定住感がないと難しい。パスタも作ろうと思ったけどチーズが保存できない(持ってきたけれど腐らせた)のと、コンロがひとつしかなくソースと麺を茹でるのが面倒でさっぱり作らなくなってしまった。

◾︎共同トイレはあまり気にならない。
ほかの住人とトイレで出くわすこともほとんどないので、これはあまり気にならない。定期的に業者の方がきて清掃しているようなので、だいたいきれい。


また思いついたら書き足します。

ぼくにとって書くことや話すこと

ぼくにとって書くことや話すことというのは、ぼくに見えている現実を取り出して「今こうである」ということを確かめる行為だ。

ある出来事に直面する。それは何か回答や見解が求められることであったり、状況からみて自分が何かいうべきではないか、と思えるようなことであったりして、その都度ぼくは言葉や行動によって反応する。

けれどこれは注意深くやらないと自分の見えているものとずれたことを言っていたり、思ってもいないのに余計な気を利かせて話していたりする場合があって、そういったずれにその場で気がつくこともあればまるでずれなどなかったかのように過ごしてしまうことさえある。

こう捉えたほうがいい、こういう考え方もできるはずだ、とか、そういう特定の方向づけになるべく影響されないかたちで「見えている現実」を取り出そうとすると、ぼくにとってはそれは書くとか話すとかいったことによってようやくできるという感じがしている。

人の書いた文章を読んで画面の前で唸り、しょうもない文が書けないぞという気分になって一向に何かを書ける気がしなかったのだけれど、こうして書いている。

何かを書ける状況というのは意図して作ることができる類のものなのかどうかは分からない。もう何も書けないんじゃないかという気分になっていたかと思えば、ぱっと視界が開けたように書こうという気分がやってくることがあって、その予兆みたいなものはなく、銭湯の湯船から磨りガラスの向こうに脱衣所の人影をぼんやり眺めている時だったり、夜の路地をぶらぶらと歩いていて交差点に差し掛かった時だったりする。

これは何か杭を打つようなもので、書くことによって自分はこういうものを見ているという現実を確かめて打ち付けているような気がしている。

自分にとって微妙にずれた現実の固定化をすすめるような話し方や書き方ばかりしていると、そちらの状況が現実としてより力を持ってくるのをひしひしと感じる。そうなると特に必要もない時にそちらの現実が背後からぬっと顔を出して、ぼくの頭や手や足をとって動かそうとする。

そういう気配を感じながら書く。

2015年10月27日火曜日

10月27日(月)

1日の仕事を終えて、バス停に並ぶ。前に並んでいる3人の後ろにつけて顔を上げると、いつも出勤時と退勤時に必ず目に入る屋外時計と街灯の背景に赤みがかった空が見える。地面から高く伸びる柱の先端に乗っかっている街灯の電灯部分は格子状の箱のようなもので覆われていて、灯りはまだついていない代わりに格子の間から空の赤が顔をのぞかせていて、格子の一本一本の輪郭がくっきりと描き出されている。

ああ、と思って以前もまったく同じような風景を見た、ということに気がつく。それはたかだか数ヶ月前で、その時の時間感覚を思い出す。それはまだ1日の終わりという感じがしなくて、まだここから何かをする余地がある、というかホームグラウンドに帰ってきてこれから1日が始まるようなそういう感覚だ。ここからどこへでも行けるし何でもできるという感覚でバスに乗り、実際には家に帰るだけなのだけれどとにかくそういう心持ちで移動していたということを思い出した。

2015年10月24日土曜日

無題

1日の出来事が、わーっと頭に浮かんできて、負荷がかかる。

負荷をなんとか減らそうと思ってイヤホンを取り出して、騒がしい曲をかけてみる。何年か前からやっていたやり方で、今回もそうする。けれど耳に音楽が響いているだけで状況は変わらず、わーっと頭に浮かんでくる。ということに気がついて音楽に意識が戻って曲が流れていることに気がつく。

銭湯の湯船に浸かって目を閉じて口を空けていると、やっぱりわーっと頭に浮かんでくる。もうどうしようもなく、そのまま口を空けている。じりじり、じりじり、とハードディスクの読み込み音がひとりでにしているような、あるいはわーっと浮かんでくる1日の映像に追いつこうとするように、じりじり、じりじり、と頭に音を鳴らす。

浮かんでくるのは一瞬から数秒の映像で、その当時、つまり今日ぼくが見た人の顔の角度やその表情、部屋の広さが再現されたかと思うと別の映像に切り替わる。大抵そこに音声はなく、そのときの心持ちというか感覚のようなものが思い起こされるかどうかという瞬間に、その場面で自分が言われた言葉を思い起こそうとする。と同時に無理に思い起こさなくてもいいという気がして、言葉の断片に触り、だいたいこういう言葉だったという輪郭が浮かんでまた別の場面に切り替わる。

そういうことを繰り返しているとだんだん湯船に浸かるのに疲れてきてお風呂からあがる。

音楽をかけて負荷を減らそうとしても逆効果で、別のもので押さえつけようとした分圧力を伴って映像が噴き出してきているのではないか、という考えが浮かぶ。

ということを書くことで、何かを保とうとしている。

2015年10月18日日曜日

以前ふつうにやっていたこと

『はてしない物語』に登場するバスチアンは、本の中の世界「ファンタージエン」で自分の望みが叶えられるたびに、記憶を失っていく。最終的に彼は自分の名前を忘れる。

* * *

「以前はふつうにやっていたこと」というのがある。これは、「今はふつうにできなくなっている」ということを自覚しているからできる表現で、これが自覚化されていない状態では「ふつうにやっていたこと」を対象として取り出すことができない。

不意に何かのきっかけで「今はふつうにできなくなっている」ということを自覚した瞬間に、その瞬間の直前までの状態が「今はふつうにできなくなっている」ということを自覚していない状態として区切られる。

ここでぼくが「以前はふつうにやっていたこと」という言葉で指しているものは、特定の名称を使うことによって指し示したり、簡潔な言葉で解説するということが難しい。

借りているアパートの一室から同じアパートの別室に引っ越すのが妙に楽しかったり、人に会ったら10年ほど借りたままになっていたCDを返されて懐かしい気持ちになったり、そういうなんの脈絡もない出来事と自分の反応の積み重なりが今日はただ目の前にある。

計画を立てる、見通しを持つ、目標を設定する、根拠を示す、意義を説明する、そういうったものを持ち出すと本来は脈絡もなくただそこにある物事が整然と並べられていく感じがあって、そういう働きと「以前はふつうにやっていたこと」とが関わりがある気がして、その関わりについて書きたいけれどトイレに行きたくなってきたのでここで書くことをやめる。

2015年10月16日金曜日

半年前の彼

ずっとブログを書いていないなあ、書くペースが落ちたなあと思っていて、散歩に出て何か書きたくなって、何を書くとも定まらないままとりあえずパソコンを開く。

デスクトップにはいくつかのテキストファイルが無造作に置かれていて、その中のひとつを開くと、ちょうど半年くらいまえに自分が書いた文章が記されている。

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駅に向かうのが足早になる。
いつも駅までかかるのと同じ時間見積もって家を出ているはずなのに、
心なしか早足になっている。
カツカツカツカツ歩いている。

ホームで「ただ待つ」というのが耐えられない。
あと5分で来る電車に対して、早く来ないかといらいらする。

電車内で気を張る。
「降り損ねてはいけない」という考えが常にひっかかっている。
ぼーっとすることに没頭できない。
何かのスイッチがオフになっていて、ある一定以上は考えが進まない。

込んでいる電車内では、もっと気を張る。
目を閉じ、こうべを垂れて肩が内側に向いて、胸のあたりが狭くなる。
いくつものスイッチをオフにして、
じっ と縮こまって、人が、時が過ぎるのを待つ。

声を張る。テンポが上がる。
いつもの調子でとぼとぼと話していると
届かない感じがする。

帰ると、顔・肩・顎あたりがこわばっているのを感じる。
口角を上げようとしたときに使う筋肉が緊張していたような感じがする。

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当時ブログに書こうとして、公開しなかった文章だ。

書かれている文章を読んでいると、これを書いた当時のぼくの姿が立ち現れて、彼が当時の状況を自覚的に切り取って文章にしている様子が見える。文章を読むと今のぼくが見過ごしている、あるいは慣れたと言えるような状態を当時のぼくは意識的に切り取っているところから、彼と今のぼくとはかなり距離があるのだということを、自分が書いた文章によって思い知らされている。

2015年10月4日日曜日

ベーシック・ライン生活。東山の和室で一ヶ月生活する。



どうしてこれをやろうと思ったのか、説明しようとするけれど上手くできない。

ともかく、いつもの荷物のほかに3日分の服を紙袋に詰めて、昨日東山の和室に到着して一夜明けて、今みやこめっせでブログを書いている。みやこめっせは今日、街でよく見かける紅茶メーカーのイベントがやっていて、おしゃれな女の人がたくさん行き来していて落ち着かない。ロビーを出て地下のガラス窓そばの椅子に移動して、また書き始める。

ここのところあまりブログを書いていなくて、どう書いていたかを思い出すようにとりあえず思いついたことを打ち進めている。目の前をお母さんに抱かれた赤ん坊が通り過ぎて目が合う。館内にはなぜか和風にアレンジされたボレロや聞いたことのある何かの曲が流れている。

最近、食べるもの、着るもの、住む場所、使う道具、そういうものには「これでいい」と「これこそがいい」をつなぐラインがあるのではないかと、そういうことを考えている。「もっといいものがあるのではないか」と、他との比較から妥協に位置せざるを得ないような「これでいい」でもなく、それについてよく知っていたりたくさん投資したり所有することで自らの立ち位置を保つような、そういう「これこそがいい」でもなく、ただ「いい」としみじみ思えること。

それは例えば土鍋で米を炊くようなもので、土鍋で米を炊くと15分そこらで炊き上がるうえに、なにより美味い。仲間の間では湯豆腐も鍋ものもできるという話が出ていて嬉しい。炊飯器だと「早炊き」でも30分はかかるし、新しく買うと高い。今和室には炊飯器はないけれど、土鍋がある。「炊飯器くらい買えばいいのに」という人もいるけれど、そういう話ではなく、また「炊飯に最適な上質な土鍋」を追求するつもりもなく、ただ土鍋でいいし、土鍋こそがいい。

「これでいい」と「これこそがいい」の2つが同時に起こるようなこと、このラインを勝手に「ベーシック・ライン」と呼ぶことにする。ゼミで吉本隆明を読んでいるせいもあって言葉を正確に使いたいと思って意味が的確かを調べてみたけれどよく分からない。この間友人の澪さんと話していて出たことばで、なんだか響きが気に入っているので、もう使ってしまうことにする。

この「ベーシック・ライン」を探求しながら、ひとまず一ヶ月、ここで生活します。生活というのはつまり、ここで寝てごはんを食べ、平日はここから仕事に行ってここに帰ってくるということをやってみます。

2015年9月22日火曜日

文章を「適当に書く」ということができない。

文章を「適当に書く」ということができない。

いまとある文章を書かないといけなくて、それに取り掛かっているのだけれど、思ったよりも時間がかかって疲れ始めている。

今現在のぼくとしては特に語るべきことがなくて、けれど立場上何かを語る必要があって、そうした状況の中にもう一度自分を投影してみると、「何かを語る必要がある」と「かろうじてこれだけは言えるかもしれない」という2つの要素がぎりぎり交差する箇所が少しだけ見えてくる感じがあって、かろうじてそれを掴み取って文字に書き落としていく。書き残した文章を見返すとそのぎりぎり交差する箇所からわずかにずれていることが分かって、もう少し右、いやもうちょっと左だ、という具合に微修正を重ねていく。もうあとは体力と締め切りの問題で、それこそもう、今現在のぼくとしてはこうとしか書きようがないという部分で、それは微修正する体力的・時間的・技術的な限界によって書くことが終了する。

自分の書いたものが何も語っていない、一見何かを語っているようでぼくとしては何も語っていないことがありありと分かるような一文があって、その空虚さ、意味は通じるけれど価値のまったくないその一文を見るにつけ、ますます「適当に書く」ということができないと痛感する。

たとえば仕事の報告書なんかはまったく別で、「何を語る必要があるか」に焦点を合わせてそれに応じた情報を集めて的確に配置することに注力すれば出来上がる。自分だけで完成にたどり着くケースというのはほとんどないので、いっしょに仕事をしている人との共同作業の中で焦点のズレを修正したり、足りない情報を補い合って文章が完成する。

今回の場合ややこしいのは、過去の自分としては大いに語ることのあった場所についての文章で、今の自分とその過去の自分とは明らかに距離があって、けれど「距離がある」とだけ書くことでは完結しないと自分が感じているという点にある。もっとほかに「語るべきこと」があるような気がしていて、同時に「何かを言いたい」ような気もしている、という小さな波がざわめいているのを感じていて、それをうまくすくい取って言葉に残せられれば書けるのだろうし、すくい取れなければ書けない。

という今の状況が書けたということには、とても満足している。

2015年8月20日木曜日

281時間のフリーキャンプ 5:問い


281時間のフリーキャンプが終わった。

正確にいうと「281時間の本当にフリーなフリーキャンプinまるネコ堂」と題した企画の終了時刻を過ぎた。

開始時刻を迎える数時間前からぼくを含めた最初の参加者4人はまるネコ堂にいて、開始時刻とそれより前の時間の境目は曖昧だ。それらを分かつのは「始まったらドーナツでお祝いしよう」と食べたドーナツとコーヒー、それから最初におこなったミーティングくらいのもので、すでに開始時刻前から何かが始まっていた。

終了時刻にもドーナツを揚げてコーヒーを淹れて、参加者で友人のうみちゃんが急遽手作りしたゴールテープを切るということがおこなわれた。わかりやすい儀式を経て何かが終わったような気がするけれど今も何かが続いている。

うみちゃんが先日開かれたとある場に対して「行くと決めた時から私は居た」というニュアンスのことを言っていたのを思い出す。うみちゃんはこのフリーキャンプにも来ると言っていて、けれどいつ来るかは当初知らされていなくて、ぼくたちはいつうみちゃんが来るんだろうかとそわそわしながら過ごした。うみちゃんはずっと居たし、今もこうして書いているのでやはり今も居る。

今日は残業せずに職場を出てきた。いつもこの時間に帰る同僚の人に「この時間に帰ったら何したらいいかわかんなくなっちゃうんです。早く帰ったらどうしてますか」と聞かれた。ぼくは一瞬戸惑って「こないだはマクドナルドでぼーっとしてました」と答えたけれどそのことを今またマクドナルドで思い出している。

この「 281時間の本当にフリーなフリーキャンプinまるネコ堂」を思いついたときに冗談半分で「フリーキャンプのように生きる」と言って笑っていたけれど本当にそうだという気がしていて、まるネコ堂の庭先のチェストに腰掛けて生い茂っている草、それはあとで解説を聞くと大葉やニラやミントやルッコラや雑草だったりするのだけれどその時見えているのは緑色の庭で、個々の植物の種類に焦点は当たっておらず、ただぼーっと庭を眺めているときに「生きるとか暮らすって何だ」という感じがうっすらと浮かんで漂った。それは答えを出す方向には働かず、そういう問い自体が吐き出したタバコの重い煙のように頭の周りにただ漂って霞む。

フリーキャンプの期間中には驚くようなことがいくつも起こっていて、それは「フリーキャンプの凄さ」みたいな文脈で説明したくなるけれど本当にそうだろうか。日常と区切った何かであったから何かが起こったのだろうか。

少なくともあるのはこの期間中にぼくは何人かの人と会って話をしていて、いろいろな出来事が起こっていろいろな気持ちになって、とても疲れたり元気になったり一人になりたくなったり人と話したくなったりした。ただ、これらのことが起こった。

これをするとお金が得られるとか充実感や安心感を得られるとか学びがあるとか、居場所ができるとかより上手く何かができるようになるとか、そういう類のものを持ち出してきた場合はこの「ただ起こったこと」がそのままのものとして見えない。 これらのことは、ただ生きるとか暮らすということとは位相の違うところにあって、その性質を見極めて上手く使えばいい類のものだ。

ごはんを食べて美味しい美味しいと声が出て、会いたい人と会って、思い立ったときにやりたいことをやり、人と一緒に居すぎて疲れて一人になりたくなり、移動したくなったら移動して、庭で夕暮れを見てああーと声が出る。これが暮らすとか生きるということだと言ってしまうのが陳腐に聞こえるのは、「早く仕事が終わったら何をするか」とか「生きるとか暮らすとは何か」という問いが成立しているからだ。そういう問いが煙のように霞んで漂ったときに、フリーキャンプのように生きるということが起こる。というよりも、そういうことがただ起こっていたところに後から「問い」がやってきたのだ。

フリーキャンプが終わってから25時間57分。

2015年8月18日火曜日

281時間のフリーキャンプ 4:河原にて



フリーキャンプ開始から259時間2分。

鴨川の四条大橋南、東側の河原でブログを書いている。

朝、マクドナルドで朝食を食べる。2階席に上がり、wifiを拾って朝に書いたブログを更新しようとしたけれどアップしようとしていた写真を撮ったiPhoneの接続が悪いので断念してみやこめっせに向かう。到着するとみやこめっせは閉まっていて、昨日だけでなく今日も終日閉館だということを知って途方に暮れる暇もなく暑さに耐えかねて図書館へ向かう。図書館はクーラーが効いていて涼しく、とりあえず冷水機でペットボトルに水を汲む。今日は本を読みたいと思っていたんだ、と思いながら地下階にらせん階段を降りる。閲覧スペースの座席は7割が埋まっていて、座ろうと思っていたガラス窓際の席に空きがない。座席を探してうろうろしている間も、ブログを更新できていない中途半端な感じが残っているのが気にかかっている。適当な席を見つけて座って本を読み始めるけれど手につかず、やめる。

ここまで書いていて視線を上げると川の向こう側には川床の灯りが見えていて水面を照らしている。川上から歩いてきた若い女性二人が「めっちゃいいじゃんここ」「彼氏と来たいわあ」と関東弁のイントネーションで話している。風上のほうからはたまに獣のような匂いが運ばれてきていて、今はもう消えている。

今日は午前中に自宅に戻って弟と蕎麦を食べてだらだらと話して、少し昼寝をして一度家を出た。「1人になって本を読みたい」と思って駅に向かったけれどどこかしっくり来ず、コンビニで買ったアイスを駅前で食べたら眠くなってきて結局自宅に戻ってもう一度昼寝をした。目覚めると驚くほど頭がすっきりしていて、寝たかったんだとここではじめて気がつく。

頭がすっきりしたら外にも出てみようという気になって、昼寝前に大谷さんからもらった電話で今日は野菜をたくさんもらって夜はごちそうだと聞いたのでまるネコ堂には行こうと思っていたのだけれど一度河原に寄りたい気分だったので阪急電車に乗って今ここにいる。橋の上には外国の言葉が飛び交っていて、結局フリーキャンプ中に行かなかったけれど海外に行くかもと話していたことを思い出す。もうこの辺りはどこに何があって何時ごろにどう活用すればいいかをよく知っている海外ではないか。そのようなことを思いながら川に降りる階段を下って腰を下ろして、目の前には川が流れている。

「本を読みたい」と昨日ぼくは話したけれど実態は別のところにあるような気がする。1人になりたいという欲求は昨日の夜にある程度満たされていて、今日は昼寝がぐっすりできたので割合満足していて、あとは今日ごちそうだと聞いているまるネコ堂での夕食が今から行って分け前が残っているのかどうかが頭にちらついていて、さっき近くに腰掛けた女性はもうどこかへ行ってしまった。

その都度したいことをするのがフリーキャンプだということは簡単に言えてしまうのだけれど、そう言った瞬間に「その都度したいことをする」というルールに自分が囚われて「したいことがわからない」と言って困った気分になったりする。けれど実際には「したいことがわからない」というだけであって、問題かというと問題ではない。

ここからさらに何かを書こうとするのだけれど書けず、おそらくそれはフリーキャンプ中にもう一度1人になって書きものをする時間はもう最後なのではないかという気分からやってきているということを突き止めたので、もう十分だという気がする。書くモードになれるような時間を自分でつくって、書いても書かなくてもいいし書くことも忘れるくらい何かが起こるかもしれず、それは今どうこういうことはできず、今はそういう状態であるということだけがわかる。

祇園南座のバス停の道路に面した柵に腰掛けて、京都市の公共wifiを拾ってブログを更新する。やっぱりここは海外だ。

あと21時間29分でフリーキャンプが終わる。

281時間のフリーキャンプ 3:他人の影

フリーキャンプ開始から248時間32分。

終電に近い京阪電車に乗ってまるネコ堂を出て東山の和室にやって来た。一晩明けて目が覚めてブログを書いている。

「そうか1人になりたいのか」と気がついてからは行動が早くて、1人まるネコ堂で留守番していたぼくは荷物を片付け始めた。リュックに必要なものをまとめ、ペットボトルに水を汲み、携帯と小銭をポケットに突っ込んだ。このまま書き置きだけしてここを出たら、あと数十分で戻って来るであろう大谷さん・澪さんはびっくりするだろうなと想像しながらいたずらな気持ちになるけれど、そうはせず、とりあえず庭に出て雨がまばらになった空を眺めると西の空の雲の切れ目から太陽の光が差し込んでいるのをしばらく見ている。ほどなくして大谷さん・澪さんが帰ってきてコロッケとチューハイと発泡酒にやられてそのまま飲んで、キーマカレーを作ってしばらくごろごろしていたのだけれど、やはり出発する。

三条京阪の駅についてしばらく街をうろうろして、和室に向かう。ラーメンが食べたくなって、なぜかチキンラーメンだと思う。目の前には屋台風の店構えで店員が店先で休憩している長浜ラーメンが見えるけれど、きっと部屋に戻って湯を沸かして袋ラーメンを食べても満足するのだろうと思い、やっぱりチキンラーメンだと思う。川端通りに面した24時間営業のフレスコに行く。店内はがらんとしていてレジには店員も通路に客もおらず、店員は棚で商品陳列をしている。ラーメン売り場に行くと足元に袋ラーメン5パックが並べてありチキンラーメンもやはりある。これの1食分、と棚を見上げると幾つかの種類が並んでいて、80円だ。80円でチキンラーメンが食えると期待して棚を探すけれどあのパッケージは見当たらずああ置いてないのかと一瞬がっかりするがチキンラーメンの値札だけを見つける。棚は空で売り切れているようだ。5食パックを見つけたとき、1食パックの値札を見つけたときの2回ぼくは期待して2回裏切られ、けれどやはりラーメンは食べたくてマルちゃん製麺のパックを手にとってレジに行く。

アパートの前について2階を見上げるといくつかの部屋の灯りがついていて住人が起きているのだとわかる。けれど2階に上がっても物音がしないので寝ているのかもしれない。部屋でフライパンに湯を沸かしながら荷物をおろす。木製の器にヒビが入っているのでフライパンから直接食べることしかできない。火を止めてフライパンに粉末スープを入れる。レンゲがないのでマグカップですくってスープを飲むことにする。ラーメンをすする音が部屋に響くのが気にかかる。自分の生活音というのが人に聞こえてはいないだろうか、なに夜中にラーメン食べてるんですか、静かにしてくださいと住人に言われないだろうかという考えがよぎって、ぼくは今気にしているのだということがわかる。選んだラーメンは豚骨ラーメンで、ちょっとしつこい。ぼくはこういう自分でラーメンの種類を選べる時は豚骨ラーメンを選びがちで、それは多分実家でラーメンを食べる時は大概塩ラーメンで高校生くらいの時期から豚骨ラーメンへの憧れみたいなものがあったからだ。友人がラーメンはやっぱり豚骨だよなという話をしているのを聞いて、うちはなぜ塩なんだろうかと考えたことがあって特にそれがどうということもないのだけれど、もともとチキンラーメンを食べたくてなぜか今豚骨を啜っているぼくはその延長線上に居る。

ラーメンの後始末を終えると、この何もない和室で安心して眠るためにはどうしたらいいかを考えるともなく準備し始める。パソコンからうすく音楽をかけておく。部屋の隅にポケットに入っていたものや文庫本をリュックの横に並べて置く。寝袋を2つ出してきて1枚は敷き布団代わりに、もう1枚は枕にする。この6畳の和室は西側に窓があり、東側に2畳分の台所スペースを挟んで廊下に面した小窓と玄関がある。暑ければ廊下側の窓を開けようかとも思ったけれど涼しいのでその必要もなく、閉める。西側の窓に足を向け、台所側、つまり廊下側に頭を向けて横になる。

電気を消すけれど、どうも落ち着かない。部屋が真っ暗になると廊下の灯りが目に入ってきて嫌でも部屋の外の空間があるということを意識させられる。そしてこの体勢だと誰かが入ってきてもすぐに見ることができない。寝転んだまま顔を横に向けても目に入るのは白い壁だ。「誰かが入って」くる場合の誰かというのはつまり共同でこの部屋を借りている友人やアパートの他の住人や強盗とか霊的なものまで想像するのだけれど、どれもそうそう起こるとは思えず、一番可能性が高い友人でさえもこの時間帯に突然来るとは考えにくい。来たとしても何か問題があるわけではない。けれど実際に起こるかどうかはともかくとしても気になっているということは事実なので、極力気にしなくていい方法を考える。まずは頭の向きを変えて南側にする。こうすると左手に西側の窓を、右手に台所側の廊下に面した小窓を視界に入れることができる。きっとやって来るとも思えない訪問者が来てもなんとなく安心できるような気がして、ずいぶん落ち着く。次に部屋に広げていた荷物をまとめる。出しておく必要のない文庫本や服などはカバンにしまう。酒を少し飲んだコップも洗い、ペットボトルに水を汲んでおく。これでこの場所への固着感が少し減り、必要とあればさっと抜け出すことができる。何もないとは思うのだけれど。最後にリュック、携帯、小銭、財布、パソコンを等間隔に身体の両脇に並べておく。馬鹿げているような気がしながらおまじないだと思って、結界を張る。豆電球を点けると、廊下の灯りがやや薄まってこちらの6畳の存在感が増す。横になって右を向くと、流し台の上にある小窓越しにやはり廊下の灯りが目に入る。台所スペースとこちらを区切る戸の位置を調節して、風を通しつつも光が気にならない場所を探す。左を向くと網戸越しの暗闇に木陰が見えていてこれもちょうど目に入らない位置に身体を動かす。

学生時代に一人暮らしをしていた頃、マンションの部屋に入って鍵をかけてもまだなんとなく安心しきれず、キッチンと部屋を仕切るドアを閉めてようやく落ち着いたことを思い出している。少なくとも目の届く範囲に、他人の影がないという状態。誰かが入ってくるかもしれない、誰かいるということを感じざるを得ない、そういうセンサーをぜんぶ切ることのできる環境が必要で、そのギリギリのラインを探っているような感じがある。

暑さで寝苦しいこともなく、蚊の羽音を聞くこともなく、ほかの住人の影を感じることもなく、起きたら7時半だ。文章を書き始めて1時間が経っていて、書いていたらお腹が空くかと思ったけれどよくわからない。あと31時間27分でフリーキャンプが終わる。

2015年8月14日金曜日

281時間のフリーキャンプ 2:寝る場所

「また知らない天井だ」

フリーキャンプ開始から148時間13分。

拠点となるまるネコ堂を出て一旦自宅にきて、
自分の部屋ではなくリビングのソファで寝ることになった。

フリーキャンプを開始した時の持ち物の入ったリュックだけを持って、
自室の隣のリビングに出てきた。

いろいろ起こるだろうとは思っていたけれどまさかこうなるとは思っていなくて、
けれどもう、ただ起こっているということを淡々と見ている。

自宅に来るまでも、そして来てからもいろいろあって、
これまでに起こったことを書き留めたいけれどそうもならず、
とりあえずいまの状況だけを記しておく。

2015年8月7日金曜日

281時間のフリーキャンプ:持ち物

友人の大谷さん、みおさんと話していて、「281時間の本当にフリーなフリーキャンプinまるネコ堂」というのをやってみることにした。

フリーキャンプというのは通常、ぼくの知っている範囲ではあらかじめプログラムの決められていないキャンプで、集まった人同士でその日に何をしたいかを話し合いながら、その場の環境を生かして好きなことをして過ごすというものだ。

去年参加した「上勝少年探偵団」というのもその類で、徳島の山の中で沢登りをしたり川魚を食べたりヤッホーをしたりして過ごした。

今回の企画をかんたんに説明すると、というかまるネコ堂のサイトから抜粋する。

 1 予め決めているプログラムはありません。参加者がミーティングなどで決めていきます。
 2 途中参加、途中退出、中抜け OK
  (たとえば、8  15 日と 16 日だけ参加なども OK。日帰りも OK。)
 3 毎日の定期ミーティングと参加者の途中参加、途中退出時点のミーティングを実施。 

開催の経緯とか趣旨とかは大谷さんの案内文にとてもよく表されていてこれ以上特に付け加えることがなくて、とにかく本当にこういうことを話していてそのまま形にしてしまったという感じがする。

さっき家族に「しばらく友人の家に滞在する。いつ帰ってくるかは未定でたまに帰ってくるかも」とだけ言い残して家を出発してきた。

この281時間、およそ12日間何が起こるかわからないし何も起こらないかもしれないけれど、とりあえずさっきまで現段階の参加者であるぼく以外の3人と話していて開始時間にふらっと誰か来るのではないかとどきどきしている。

開始前に、この281時間を過ごすにあたって持ってきた物を記しておこうと思う。




・carapaceのリュック(カラシ)
・Macbook Air 11インチ、ケース
・服(短パン、Tシャツ、下着、手ぬぐい)
・イヤホン(SURE 215)、イヤホンケース、に付けた自宅の鍵
・携帯電話( au GRATINA)
・iPhone 4S(回線契約解除、wifiにつないで使う)
・月間スケジュール
・岩波文庫 マルセル・モース「贈与論 他二篇」
・万年筆(LAMY)
・水筒(evianの330mlペットボトルに水道水)
・クリップ式財布
・パスポート
・以下のものを入れるポーチ
・充電器類(Mac、iPhone、携帯用)
・アメリカンスピリット、携帯灰皿、ライター
・Kodak スナップキッズ
・歯ブラシ、髭剃り、をまとめる手ぬぐい
・印鑑

服はけっこう悩んで、あれこれ考えて寝巻にも外にも着ていけるもので早く乾きそうなものを1セットだけ持ってきた。いま着ているものと、洗濯しながら着回す。

半分冗談で「ふらっと韓国とか行っちゃうかも」とか言っていたので今回パスポートを更新して持ってきた。実際行くかどうかはともかくとしても、「その気になれば行けてしまう」というのがいい。

「贈与論」は10日の月曜日にあるゼミのため。

印鑑は仕事で使っていたものを間違って持ってきてしまった。
家に帰ることがあったら置いてきたい。

いつ自宅に戻っても、いつ海外に行っちゃっても、何日まるネコ堂にいてもOKなラインはどこだろうとだいぶ考えた。

どんな281時間になるかを、少しずつ記していきます。

2015年8月4日火曜日

東山に、書生を訪ねる その3(8月1日-2日)

「書生をしている」という友人の大谷さんを訪ねた。

東山に、書生を訪ねる
東山に、書生を訪ねる その2(7月31日)

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待ち合わせ時間からおよそ1時間遅れてマルイに到着して大谷さんに電話するとみんなは6階のメガネ売り場にいるというのでエスカレーターで上がる。なんでメガネ売り場にいるんだろうかと考えかけてけれど理由がわかったところで何ということもないという気分が先に立って思考が止まってただ身体は6階に運ばれて行く。

「雪駄の会」と銘打たれた会が友人5人とこの日の16時集合であって、錦市場の雪駄が売っている店に皆で行くことになっていてぼくは遅れている。最寄駅に着いて電話した時に皆はマルイに移動したことがわかって、ぼくは皆がもう雪駄を買い終えたか買わなかったか、とにかく雪駄を買う時間は終わったのだと思う。もしくはマルイに雪駄を見に行ったのか。

6階に到着するとすぐにメガネ屋のロゴが目に入ってそちらを見る。客の中に見覚えのある人を少し探してほどなく甚兵衛を着た2人の長身の男を見つけて、友人のけんちゃんと大谷さんだとわかって次にカラフルなスカートを履いたうみちゃん、帽子をかぶったみおさんを見つける。客に混じって白いワンピースのなっちゃんも見つける。

メガネ売り場の端で話を聞いているとみおさん以外は全員雪駄を買い、もう大谷さんとなっちゃんがメガネを注文したところだそうで時計を見るとまだ17時頃で、ものの1時間のうちにどれだけのことが起こったのかと驚きかけたかれどこの顔ぶれで居るとこういうことが起こっても不思議ではないという気がして落ち着く。

うみちゃんがぼくが木曜日に書いたブログの感想を伝えてくれて嬉しくなる。あの小説のようななんとも説明のつかない体験は誰にも話していなくて、けれど文字には残していてそれを読み取った人とこうして話をしているということがもう現実感がないけれど現実だ。大谷さんから話を聞くと部屋にあったパソコンも「interesting男」からもらったものだと聞いてさすがに面食らう。けんちゃんはあの日の夜、大谷さんに電話をしたけれど当然大谷さんは部屋に携帯を忘れていたので誰も出なかった。ぼくもあの夜着信音を聞いてはいないのでぼくが帰った後にかかってきたのだろう。もしぼくが部屋にいる時にかかってきていたら、大谷さんが携帯を部屋に忘れていたことをその場で知ることになっただろう。同じ時間に別々の現実が交差していてその接点をあぶり出していく作業をしている。

メガネが仕上がるまでに時間があるので河原に行く。リカーマウンテンとファミリーマートに寄って酒と食べものを買う。四条大橋から河原に降りる。その日は四条大橋北側の河原に屋台のようなものがたくさん出ていてぼくたちは橋の南側に空いている場所を見つけて6人で座って買ってきたものを広げて飲んで食べる。最初は「これちょっとちょうだい」と言いながら他の人が買ってきた酒やつまみに手を伸ばすけれど途中から誰の酒か誰のつまみかを気にせず飲み食いするようになってこれがちょうどよいと思う。各々が勝手に飲み食いしたいものを買ってきて持ち寄ってそれは誰が食べてもよいことになるという方式は「持ち寄り食会」そのものでこれが楽しい。マッコリがチェイサーだと言いながら沖縄の泡盛をこれは危険だといいながら煽る。

仕上がったメガネを受け取ってもう一度河原に出てその前にまた各々で買いものをしてからやはり飲む。今度は川の東側でこちらは暗く、川の西側の川床や店舗や屋台の明かりが目に入っていてあたりは暗くなってきている。恋愛の話や自分の呼ばれ方の話やなんの話ともつかない話をしているうちにサングリアが1本空いていて、川沿いを北に向かって歩く。こちら側から川の反対側はよく見える。向こうからおそらくこちら側は見えない。

フレスコに寄ってまた買い出しをしてまた河原に行ってまた飲んでいるといい時間になっていて解散することになる。ぼくと大谷さんとけんちゃんは東山の和室に行くことになり歩いて向かう。アパートに到着すると「interesting男」は隣の隣の部屋に住んでいて換気のためか扉が開いていてセサミストリートのクッキーモンスターの置物がドアストッパーになっている。部屋の灯りは点いていて物音はするけれど男の姿は見えず、クッキーモンスターの焦点の合わない目線と目が合う。部屋の中は猛烈に暑く、手ぬぐいを濡らして首にかけてTシャツを脱いでしまう。蚊取り線香の煙が漂っている中けんちゃんが澪さんから帰り際に渡された催しの案内文を読んで黒霧島を飲む。3人でここに座っているという時間が成立していることに現実感がないけれどやはりこれは現実で、回して吸い続けたアメリカンスピリットはもうあと2本になっている。

一夜明けて誰ともなく身支度をして部屋を出る。階段を降りると1階の共用トイレから男が出てきて 昨日お酒ありがとうございました という。男は白いタンクトップを着ていて寝起きなのか酒が入っているのか目があまり開いておらずこちらも頭がぼーっとしていて酒に心当たりがなく どうも、 と焦点の合わない目で会釈のような動きを首がする。後ろから大谷さんが続いて階段を降りてきて男がまた 昨日お酒ありがとうございました というと大谷さんは彼がinteresting男だとわかっていて返事をする。

帰ってブログをチェックすると大谷さんが昨日酒を男に差し入れていたことがわかる。やはり現実が交差している。

2015年8月2日日曜日

東山に、書生を訪ねる その2(7月31日)

「書生をしている」という友人の大谷さんを訪ねた。

前回の記事 東山に、書生を訪ねる

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仕事のお昼休み、食堂でテイクアウトできる唐揚げカレーを買って自分の机のある部屋に戻って食べる。前日に書生を訪ねてその様子をブログに書いていたので、大谷さんはきっとみやこめっせでネットにつないで読んだはずだと思いながらiPhoneからブログが更新されているかどうかを確認するとやはり更新されている

記事を読みながらこれは一体何なのかと驚きとも何ともつかないような心持ちでとにかく読み進める。一文一文を読むごとにぼくがあの和室で体験したことの答え合わせが書いてあるようで一体これは何なのだろうかとやはり思いながら読み進める。

スイカが置いてあったのも焼酎は空だったのにウォッカが余っていたのも見覚えのない扇風機があったのもコップがたくさんあったことも全ての理由が明らかになっている。これはもう同じ場面を違う登場人物の視点から描いた小説としか思えなくて、いや確かに小説のようではあるのだけれど事実であって、けれど読んでも読んでも「interesting男」が実在するような気がせず不思議な感覚になる。事実は小説よりも奇なりという言葉があるけれど、小説と比較される対象としての事実という扱いなのだけれどもうこれは小説のような事実であって事実のような小説だ。

あのアパートにはぼくたちのほかに住人がいて、というかぼくたちは毎日暮らしていないので住人と言えるかどうか怪しいのだけれど確かにほかの住人がいて、物音がするたびにその存在を感じてはいて、けれど実際に姿を見たことのある人は少なくてまさかいきなり扇風機をくれたり部屋に入ってきて一緒に飲んだりしているという光景がありありと想像出来るのだけれど現実感がまるでない。

うわあ、と声にならない声を唐揚げカレーを食べながら出して唐揚げをつつく。

夕方仕事終わりに大谷さんから着信が入っているのがわかってかけ返す。もうなんというか半ば興奮状態で少しの間話す。もう答え合わせかと思うようなブログでしたよ。現実とは思えないですよ。昨日現場にいた友人のむっきーと今日も一緒だというが人と会う用事があって行くことができない。これだから予定を入れるとこういうことが起こってしまうというようなことを思いながら電話を切る。

2015年7月30日木曜日

東山に、書生を訪ねる

今日は友人の大谷さんが書生をしてみているということで、仕事終わりに東山の和室に行った。

地下鉄烏丸線、四条駅で降りて地上に上がりバスに乗って東山仁王門へ行く。烏丸御池で東西線に乗り換えた方が早く着くけれど、市バス定期があるので多少遠回りでもバスに乗るとお金がかからない。職場を出て1時間くらいで到着した。

住人の共同玄関にある靴箱を開けると、靴はなく大谷さんは不在だとわかる。

階段を上がって部屋の窓から中を覗くと、普段は何もない畳に荷物が転がっている。鍵を開けて部屋に入ると蚊取り線香の匂いがして煙がたちこめている。ナイフで切り取った跡がある食べかけのスイカがお盆の上にある。コップや湯飲みが5個ほどあちこちに置いてある。大きめの皿には何かの汁が残っていて箸がある。壁沿いに固まっている寝袋、ポカリスエットのボトル、白霧島の瓶はほぼ空いていてスミノフの瓶にはまだ3分の2ほど中身が残っている。本が3冊ほど積んでありタイトルを見ると大谷さんがブログで言及していた本だとわかり、やはりここには大谷さんが居たのだとわかる。しかし本の下にあるパソコンらしきものに見覚えがなく、これは誰の持ち物だろうかと思う。

コンセントにはMacのACアダプタが刺さったままになっていてMacは見当たらない。すぐそばに見覚えのないイヤホンとクリップ式の小型扇風機が転がっている。ぼくは大谷さんの持ち物をもちろんすべて知っているわけではなく、けれど部屋に残されたものに見覚えがあると安心し、見覚えがないと不安な気分になる。この部屋には一体だれがいたのだろう。ほんとうは湯飲みの数、5人ほどさっきまで人がいて宴会でもしていたのではないか。

扇風機のそばにはやはり大谷さんの持ち物だとわかるクリップ式財布と、小銭が種類ごとに並べられている。見覚えのあるcarapaceのリュックが台所のそばに置いてある。おそらく洗って干した後と思われる甚兵衛が転がっている。

ここまできてぼくは何かの事件に居合わせた登場人物のような気分になる。この持ち物から読み取れることは何だろうか。一応行く前に大谷さんに電話しておこう、と思って電話してから1時間が経つけれど返事がなく、クリップ財布も置いてある。電車に乗ってどこかに行ったわけではなさそうだ。本を1冊だけ持って図書館にいるのかもしれない。いや、電話がないところを見ると銭湯にでも行っているのかもしれない。手ぬぐいだけ持って汗を流しに行っているのかもしれない。

と考えて、ぼくはどのタイミングで外に出ようかと考える。このまま待っていて大谷さんが帰ってくる様子を想像すると、自分が座敷童か何かのような気分になって少し楽しい。ここに来たのは大谷さんがここにいると知っているからだけれど、会うことが目的かというとそうでもない。会えないなら会えないで、そのまま帰ってもいい。お腹が空いてきたので、ごはんも食べたい。

このあたりで急に体温が上がってくるのを感じて、逃げるように部屋を出た。白い麻の無地のシャツの裾をズボンから出し、靴下を脱いで古着屋JAMで買った茶色のスラックスの裾を3回捲り上げる。ビルケンのロンドンを裸足で履いて外に出ると風が通って気持ちがいい。ぼくは仕事終わりにここに来たけれど、気分は旅行者だ。

風を浴びてほっとするとお腹が空いてきたのでイオンに向かって食べ物を調達することにする。この暑さで部屋に戻って食べる気にはなれないので、二条大橋のそばの河原で食べることを決めて店に入る。割引で300円の助六寿司と88円のトップバリュ発泡酒を買って河原に向かう。

横断歩道でクールビズ姿のサラリーマンと並ぶ。ふらっと来ることを決めて、今こうして旅行者のように歩いていられることが嬉しくなる。河原に座ると辺りは暗くなってきていて、正面にはリッツカールトンの客室が見える。いくつかの部屋はカーテンが開いていて灯りを背に宿泊客の影が見える。カーテンが自動で開閉しているのがわかる。

外国人バックパッカー2人組や、犬の散歩をするおじさんや、仕事帰りの人が横切っていく。ぼくは発泡酒を飲みながらいなり寿司をつつく。今日ちょうど職場の人と「海外に行くならどこか」みたいな話をしていてぼくは特別海外に行かなくてもいいやという気分になっていたことを思い出す。今も十分、なんというか異空間にいる。日常と非日常の境界、仕事とプライベートの境界、そういう境界が曖昧になる危うい空間にいる気がしていて、この感覚を味わえる条件は家から、職場から1時間の場所に出来てしまっている。もっと境界を曖昧にするようなことをしてやろうという、悪戯したくなるような気分になる。

そういうことをブログに書きたくなってきて歩き始める。部屋に戻ってもし大谷さんがいれば話せばいいし、いなくても今日はノートPCを持ってきているので部屋で書いてネットに繋がる場所で更新すればいい。部屋にあったスミノフを飲みながら書きたい気分だったのでつまみを買おうとイオンに寄ろうとするけれど助六寿司のゴミを持ったままだったので店内に入る気分にならずそのまま部屋に戻る。

部屋に戻ると考える間も無く荷物をまとめたくなるほど暑くてほんとうに荷物をすぐにまとめて部屋を出た。ここまでくるともう、道端やみやこめっせ、図書館周辺で大谷さんにばったり出くわすようなことがなければ帰るつもりになっていた。案の定そういうことはなく、バスの時刻を見て美術館前で飛び乗って帰る。

2015年7月23日木曜日

「これさえあれば大丈夫」と「あれがないとだめ」

誰かにおもねるとか、気に入られようとするとか
何かしらの目標達成をめざして立とうとするとか、
誰かのために、という言葉に依って行動するとか、
そういうことをなるべくしないで、留まって立っていられるといい

あれがないと自分はだめだ、という感じだと、それはむずかしくて

これさえあれば自分は大丈夫だ、というのがわかっていれば、わりあい、できる。

あれがないと自分はだめだ、というのは、なんというか、広がりに際限がなくて
あれもないと、これもないと、そう言われてみればあれも、もっとほしい
という感じで ずっと 延々と続いて広がる感じがする。

新しい音楽を手に入れたくなるとか 
そこに何かあるんではないかと思ってイベントに行くとか
あれもやります これもやりますとか、
そういう感覚や動きと近い場所にある気がする。

これさえあれば自分は大丈夫だ というのはまた違っていて
それは一見、あれがないとだめだ というのに姿が似ていて
けれどこっちは 延々と広がる感じというのはなくて、むしろ
狭まったり 孤独な感じがしたり でも静かにあかるく、はっきりしている
そういう感じだ。

やれなさとか、不安とか、そういうものが目の前にぼんやりあって
そこで あれがないとだめだ、の方に向かっていきそうになるのをちょっと待って
じっと待っていたら これがあれば大丈夫 がみえてくるという感じがする。

そこでちょっと待っているうちに
「よろしいですか、フージーさん」と、『モモ』に出てくる灰色の男が話しかけてきて
そんな風に過ごしている時間は無駄だ、時間を倹約しなさい、という。

立ち方を覚えていれば、モモのように 無縁の輩として居られる。

2015年7月18日土曜日

「現実」はどのように構成されるか

なんというか、いっこうに寝られる気配がなくてブログを書く。

最近、現実というものはどのように構成されるかということに関心があって

自分のどうしようもない居所をはっきりと、切実に外に出してみて
そのうえで現実というのは構成されてくるという気がしている。

それを妨げたり、しにくくなる要素というのは世の中にあふれていて

たとえば世の中の動きが気にかかっていて、
何か言いたい、言わねばという気分がふつふつとわいていて、
わかりやすい主張に流れてしまいたくなる感じがある。

でも何かを言い切るにはちょっと違うという感じもあって
言い切れるのであればいいのだけれども、
もし言い切れないとすれば、
たとえその言い切れなさの正体が何なのかがわからなくても、
その中でそこに留まれるかどうかというか
そこで現実の構成のされ方が変わってくるように思う。

自分がほんとうに直面しているものから目を逸らすとか、
逸らすとまで言わないにしても、
自分から離れたものに対して、自分が直面しているものを投影して
あたかも自分が直面しているものがなんとかなったかのように思えてしまう
そんな誘惑というか 解決策めいたものに飛びつく

そういうことをしないでいられるかどうか
ということではないか。

もちろん、自分から離れたことと考えるのはまちがっている、
自分にも関係の深いことだよ、という主張は正しいように思えるし
そうだなという気がする。

けれどそう考えたとして、では自分からなにか発信をするとか
動きを起こすというのは一段違う層にあるという気がしていて
自分にとってそこに段差があるとすれば、
その一段低いところに留まらざるを得ないというか
そこを一段飛ばしでジャンプしてしまうことで
スキップされてしまうなにか、
自分がほんとうに直面しているものが
視界に入らなくなってしまうようなことが起こるのではないか。

そんなことを考えている。

2015年7月14日火曜日

服装の研究(3)服と社会性

ほぼ日の記事「男たちよ、シャツの下に何を着る?」がおもしろい。

タイトル通り「男は仕事中に着るシャツの下に何を着ているのか」というアンケート結果をまとめたもので、糸井重里がこんなことを言っている。

服って、社会性と自己満足の接点だから。
自己満足・自己表現だけで服を着てるひとって
基本的に世の中にはいない。
その意味では、社会性の部分をどういうふうに
無視をしたり、受けとめたり、
跳ね返したりするかというところに
まさしくこの問題がある。
 

ここのところずっと自分にへばりついている感覚、というか、ずっとへばりついていると最近になって認識できてきた感覚みたいなものがあって、それは、できない時に「できない」と言えるかとか、黙っちゃおれんときに黙ったままでいないとか、特に魂がこもっていないのにそれらしいことを言おうとしていないかとか、そういうこと。

常にそういうものが一致しているかというとそうではなくて、相手の反応が怖くて聞こえのいい言い方をしてみたり、いい格好しようとして何か言おうとしたり、けっこうそういうことをやっている。そういうとき、ずーんと重たく、ああ、またやってしまったという感じが残る。いや、「重たい」かどうかはともかくとしても、そういう自分がちらついて見えるのがわかる。

こういうことを考えていると昔の体験を思い起こすことが多くて、例えば、小さい頃流行りのTVネタを知らなくて友だちに馬鹿にされて知ったかぶりするようになったこととか、ほんとうは早く辞めたかった習い事を辞めたいと言えずに上手いことサボりながら何年も続けちゃったこととか、特にやりたくもなかったけれどなんだか引き受けないといけない気がしてリーダーや代表をやって自分の居場所ができてしまったこととか。そしてそれらは、「なんとなくやれてしまっていた」という感覚としてある。

これに対して、前の仕事を辞めたことが「やれなかった」という感覚として思い出される。

どんなに先人の言葉を読んで自分を奮い立たせても、どれだけ似た悩みを持つ人たちと語り合って「自分だけじゃない」と勇気が湧いても、先進事例を見聞きして夢が膨らんでも、本を読んでやり方を工夫しても、朝から晩まで働いても、「やれなかった」という事実だけがある。「自分を何かに適合させる」ということの限界値に行き切ってしまった感がある。

「服と社会性」とか言っておきながら服のことを全然書いておらず、気がついたら「ぼくと社会性」の話になっているけれど仕方がない。ぼくは服がとても好きだとかそういうわけではなくて、いや、見たり選んだりするのは好きなんだけれども、こういうことを考えることの一部として、「服を選ぶ」とか「着る」とかいうことが位置している気がしている。このあたりについてはまた書くかもしれない。

7月14日

帰りにマクドナルドに寄る。

ガラス越しに大通りの見える席に座って、しばらくぼーっとする。最近は持ち歩いていなかったノートパソコンを取り出して、仕事用のスケジュールをGoogleカレンダーに書き写す。これで荷物が一つ減らせるのではないかと想像する。本を取り出してゼミのレポートを書こうとするけれど、いまいち集中できなくてやめる。

パソコンにイヤホンをつないで、うすく音楽をかける。店内の話し声とドラムフレーズが混ざって現実感が薄らいでいく。歩道には右に左に人が行き交っている。

正面の車道に白い軽自動車が停まっている。窓ガラスには黄色い「M」のマークが上から潰されたように縮んで映り込んでいて、今自分はマクドナルドに居るのだと思い出す。

仕事帰りのサラリーマンに混じって浴衣姿の人が目に入る。今日は確か祇園祭の宵山で、何年か前に初めて宵山の街に出た時は歩行者天国に露店がたくさん出ていた。今日もそんな風になるのだろうか、と思いながら外を眺めていると、今見えている風景が何かが始まる「前」のように見えてくる。けれど車道に車は走っているし、露店が出る気配はない。僕は祇園祭のことを詳しく知らない。

こうしてブログを書いているときはノートパソコンのモニタに焦点が合っていて、歩道をゆく人の足という足が、ガラス越しにぼやけて視界に入っては消えていく。

2015年7月8日水曜日

服装の研究(2)サイズの合っていない革靴

このあいだ靴屋の店員さんと話していて気がついたのだけれど、今履いている革靴、実際の足のサイズよりも少し大きいらしい。

しかも、「靴紐も緩めなので、脱げないように意識して歩いていらっしゃるんだと思います。こういう履き方だと、かかとだけがすり減ります」とのこと。なるほど。

歩き方に注意してみると、確かに、こう足指で靴底を掴もうとするような感じで歩いている。地面を蹴るたびに足指を動かして足の裏を引っ張り上げている感じ。そら疲れるわ、という感じだ。それから靴と足が密着していないので、かかとが地面に擦ってカポカポ音が鳴っている。かっこわるい。

紐をきつめに縛ってみると、歩きやすくなって音もしなくなった。でも靴先のスペースに足がずれ込まないように甲で固定しているので、締め付けがきつくて甲がしんどい。いずれにせよちょっと踏ん張る感じもあって、やっぱり疲れる。

4年くらい前に、靴屋ではなく服屋で買った靴。茶色の革靴を探していて、店内にあるのを見つけて、軽く試し履きしただけで買ってしまった気がする。

よく考えると、去年1年間はこの革靴はほどんど履いていない。スニーカーでは行きづらい仕事の時に数回履いたくらいで、それ以外の時には取り立てて履きたいとも思わなかったし、実際履かなかった。

今年の4月からは、週5でこの靴を履いている。これは履きたいから履いているというよりも「今持っている靴の中ではいちばん職場に履いていくにあたって無難」だと思うから履いている。去年は淘汰されていたはずのものが、環境に合わせようとして生き還ってしまった。

2015年7月5日日曜日

服装の研究(1)はじめに

最近、服装について考えている。

服の流行に敏感なわけでもないし、ファッション雑誌もほとんど読まない。
けれど服について考えている。

友人の大谷さん・澪さんの自宅であり工房であり猫がいる「まるネコ堂」に通うようになって1年くらいが経っていて、最近はゼミ円坐などでほぼ毎週末訪ねている感じだ。僕にとってここに行くというのはなんというか完全に生活の一部になっていて、もちろん平日に仕事が終われば基本的に自宅に帰りたくなるし帰るんだけれども、日常の流れの中にまるネコ堂であてもなく話している時間というのが確実に組み込まれていて、その存在感というのはとても大きくなっている。

春から始まった仕事は週5日勤務なので、月曜朝から金曜夜まで働いて、あとの2日は家にいるかまるネコ堂にいるという感じでだいたい過ごしている。5:2でばちっと1週間が分割されて、5日間はもう残りの2日間とは別世界だとすら思えてくる。少し前に週2〜3日シフトで働いていた時期があって、その頃はもうちょっと日々に連続性があった。

服の話を全然していないのだけれど、この分断される感じをできるだけなくしたいと思っていて、そこには服装がけっこう影響しているんではないかと思い始めている。仕事に着て行っている服、つま先の細い革靴を履いていわゆるビジネス的なシャツを着てまるネコ堂に寄る、ということができない。物理的にはできるけれどあまりそれをしたくない。逆に普段着ているような、アウトドア風のスニーカーとかサンダルにTシャツではさすがに出勤しにくい。

この中間を探したいと思っていて、仕事だろうがそうでなかろうが着たいと思える服を身にまとって、そうしていさえすれば職場だろうがまるネコ堂だろうがfenceworksstudio CAVEだろうが、するっと行けるという状態にしたい。

職場にジャケットを置いてみたりカバンについてはすでに解決していたりするけれど、特にシャツ、靴あたりは難関で、なんとかしたいと思っている。

行き着く先はわからないけれど、なんというか、考えたりやってみたことを記していこうと思っています。

2015年6月25日木曜日

渦が落ち着くまで待ちたい

とある幾つかのことを決めないといけなくて、
それを後回しにしていたことを思い出す。

とりあえずじっと座る。

別にいいんじゃない、こっちで。という感じがする。
でも「そうしよう」とならなくて、立ち止まる。
これは何だろう、と手に取ってみる。
しばらく眺めていると、ああそうかこういう感じかとわかる。

なんとなく整った気がして、動く。

 * * *

別になんということもない些細なことについて、
こんな風に考えてものごとを決めている時間がある。

コップの中をわーっと掻き混ぜて、渦が静まるのを待っていると
底面に書かれた文字が見える、みたいな。
自分が何もしないことで、なんとか見えるものがあるというか。

でも日常生活ではこういうことはあまりできなくて、
渦が静まっていないのにコップの底の文字を尋ねられて
「Aだと思います(たぶん)」みたいな見切り発車をしたり、
他の人の渦に巻き込まれてよけいに撹拌が進んで
文字が見える前に疲れ果ててしまったりする。

精神的・体力的に疲れていると、渦が落ち着くのを待てない。

下手をすると朝起きてもまだ渦は残ったままで、
こうなるともう機械的に排水してしまうとか、
コップの代わりに別の物を置いて、
一旦コップを見ないようにして気を紛らわせるとか、
そういうことをせざるを得なくなってくる。

これはこれで悪くはないけど、長続きする感じがしない。

 * * *

排水のための機械とか、コップの代わりに見るものとか、
そういうものについ頼ってしまうけどそれはそれで仕方ないかなと思う。

でもやっぱり渦が落ち着くまで待ちたい。

2015年6月20日土曜日

「困る」人

「僕」は、どこかそわそわした気分でいる。
じっとして居られなくなり、とりあえず歩き始める。

ふと横に目をやると、誰かがいる。
なんとなく気になって、歩いていき、話しかける。

その誰かはこう言う。
ああ、そうですか、そうなんですね、わかります。
こういうことでお困りなんですね。

「僕」は答える。
ああそうか、そうです、そうなんです。
ぼくはまさにそれで困っていた気がします。

誰かは言う。
ええ。さぞお困りだったでしょう。
こういう風に考えるといいですよ。
あなたにはこういうことが必要で、こうやってこうなるのがいいですよ。

ああ、ありがとうございます。
そうか、これをやればいいんだ。あれをやればこうなれるんだ。
少し元気になって、また歩く。

しばらくすると、どこか調子がおかしくなってくる。
あれ、こうしてるはずなのに。
まだ足りないのかなあ、次はこうしてみたらいいのかなあ。
こうすればこうなれるはずなのになあ。

少し引き返して、さっきの誰かをたずねる。
あのう、こういう風にしてみているんですけど、
なかなかこうならいんです。

すると誰かは言う。
そうですか、そうですか。ええ。
きっとまだああいうことが足りないんですよ。
わたしはこんな風にやってみましたよ。
そうだ、あっちのあの人はああいう風にやっているそうですよ。
ええ、きっとああすればこんな風になると思いますよ。

ううん、そうか。言われてみれば、そんな気がする。
そうだよな。うん、そのはずだ。そうしよう。
また歩く。

痛みを感じて立ち止まる。
かかとに、靴ずれができている。

2015年6月6日土曜日

京都を旅する

今日も平日と同じ時間に目が覚めた。けれど予定もないので二度寝して、10時頃から動き始めた。朝食を取って一通り部屋の掃除をしたあと、さてどうしようかと思う。ここ2ヶ月は布団を床に敷いて寝ているので、ベッドを処分しようと思っていた。けれど何だか気持ちが向かない。とりあえず、友人の結婚式の出欠ハガキを出しに近所のポストまで歩くことにした。ものの2分でポストへの投函を終える。目の前のコンビニに寄って雑誌を立ち読みして、カフェオレを買ってぶらぶら歩いた。

川沿いに来たところで、ふとpha氏のブログ記事「一人で意味もなくビジネスホテルに泊まるのが好きだ」を思い出した。この土日は予定が流れたので、ちょっとやってみたい。電車でふらっと行けそうな場所はどこだろうと想像しながら、住宅街を抜けて自宅に戻る。和歌山、姫路…色々想像するけれど「東山の和室でいいのでは」と思えてしまう。そうか。一泊するかどうかはともかく、なんとなく自宅にいたくない。家を出たいのだ。そう気がついたので、リュックにいつもの荷物と下着類、パソコン、充電器類だけ詰めて家を出る。気が向いたらどこかで一泊するかもしれない。3時間くらいで家に帰って来てもいい。

とりあえず最寄りの駅に向かって歩き出す。駅の真上に高速バス乗り場があることを、歩きながら思い出す。片道3時間くらいで行ける場所にバスが出ていれば、ふらっと乗ってみたい。そうだ、電車に乗って移動するのはなんだか気が向かなかったけど、バスならいいかもしれない。そんなことを考えていると、時刻表の前に着く。ほとんどのバスがすでに出発しているか、次の便まで3時間ほど待つ必要があった。唯一乗れそうなのは40分後の広島行きで、駅のwifiを使って所要時間を調べると、6時間。これは長すぎる。顔を上げると雨が降り出していた。傘もないので、今さら自宅に戻る気もしない。とりあえず、改札を抜けてホームの待合室に入る。京都方面であれば定期券範囲内なので、お金をかけずに移動できる。気が変わったら帰ってきたらいい。そう考えながら文庫本を開くと、ほどなく電車がやって来た。「これに乗れば景色が変わる」という期待のようなものが生まれたので乗ることにする。

通勤の場合はいつも特急に乗り換えるけれど、今日は急ぐ必要がない。準急列車に乗ったまま少し眠る。駅に到着し、改札を抜けて地上に出る。そう言えば近くのCDショップが改装されてカフェと一体になっていたので少し見てみたい。店内は1階がカフェ、地下がCD・本・雑貨屋になっていた。本の配列や、置いてある文具や、照明のどれもがおしゃれな感じだ。なんとなく店内をぶらつく。興味のあった本を見つけて手に取る。けれどレジには向かわない。特に欲しいものがないということは最初から分かっていたので、店を出る。とりあえずお昼を食べたいと思って歩き始める。なんとなくラーメンが食べたいような気がするけれど、スーパーで買出しして東山の和室で食べてもいい。通りを歩いていていると、服屋が次々と目に入る。街や店からは強い引力が働いていて、どんどん店に引き寄せられるような気がしてくる。僕はかろうじて、地下鉄東山駅そばにある和室の引力によってバランスを保って、店に入らないまま歩いている。特に今服が欲しいわけではない。

少し歩くとちょうどバスが停留所に来た。祇園方面に向かうバス。僕はドアが閉まる直前に飛び乗る。バスは走り始める。どこで降りるかは決めていない。さっきまで歩いていたのに、今は倍以上のスピードで走っている。「バスを待った」という感覚がないので、歩く延長でワープでもしているような気分になる。祇園まで行こうかどうか迷ったけれど、スピードが変わった楽しさを感じられて満足していた。バスの定期を提示して、四条京阪で降りる。鴨川沿いを歩こうと思ったけれど、川端通の東側に降りたので戻るのが面倒だ。とりあえず祇園の街に入る。夜の街の昼の姿はなんだか不思議だ。スナックやバーの看板が連なっているけれどネオンは灯いていない。空が青い。ほとんどの店が準備中か閉まっている。夜は多額のお金がここで動くはずなのに、その気配がない。誰も僕にお金を使えと要求しない。使おうとしても、使えない。ゴツい外車に乗ったスーツ姿の男性、修学旅行生の5人組、ジョギングする夫婦、外国人バックパッカー、着物体験姿の女性グループ。リュックを背負ったジーンズ姿の男。

祇園の街を徘徊して疲れたので、昼ごはんを食べることにする。めぼしい食事処もなく、やはりスーパーに寄って東山の和室で食べることにする。ごはんと、レトルトカレーとコロッケを買う。お腹を見たして2時間昼寝し、今これを書いている。みやこめっせに来たので、更新する。








2015年6月3日水曜日

余計なことをせずにノイズを除去できたら動ける。


大谷さんのブログ(【137】その人の行動原理。)を読んだ。
その中にこんな一文があった。
僕が行動原理というふうに言っているものは、何かに邪魔されない限りは基本的にその人はそのように行動するというもの。
何かに邪魔されない限りは。本当にその通りだなと思う。
なんだかブログに返答してもらったみたいで嬉しくなって、
ぼくもこの「行動原理」についてちょっと書いてみたい。

以前は、人は自分の意思によって行動するものと思っていた。
もっとこうなりたい。もっとこうあるべきだ。
そういう、自分の外にあるものに向かうエネルギーによって人は動くと思っていた。
もちろんそういう原理は実際にあって、
世の中の大抵のものはこの原理で動いていると思う。

けれど最近気がついたことがあって、
ぼくの場合はこの「もっとこうなりたい」とか「もっとこうあるべきだ」
という類いのものが、自分の行動原理を邪魔している。

学生時代、「こうすべき」に囚われずに「こうしたい」を基準に動きたい、
みたいなことを考えていた。
けれど、今ではこの考え方もしっくりこない。
そもそも「こうしたい」というのがあるかどうかすら怪しい。

「今のままで良いのだろうか」みたいに思うことも、前より少ない。
「良いかどうか」もよく分からない。

あるとすれば「今どうであるか」くらいのもので、そこをちゃんと見るしかない。
「今どうであるか」が見えれば、後はもう邪魔するものがなくなるのを待つしかない。

積極的にできることがあるとすれば
「こうあるべき」「こうありたい」というノイズを極力除去することくらいだ。
そういう方向に自分を促すものから距離を取るくらいのことしかできない。

余計なことをしなくていい。
ちゃんとそこに留まって、「こうあるべき」「こうありたい」というものが
すーっと引いた時に行動できるという気がする。

2015年6月2日火曜日

ぼくにとって「決断する」ということ

「コロッケを買って食べる」とかはすぐ決まる。
京阪淀駅前の肉屋のコロッケが美味しい。

ぼくは決断することが苦手だ。と、ずっと思っていた。

高校受験の志望校をなかなか決められなかった。最後の最後まで迷い、一度出した志望校を締切日の朝に変更した。

大学のゼミ選択もそうだった。締切が近づいても決めきれず、興味のあった2つのゼミの志望理由書を平行して書いた。大学図書館のパソコンの前で2通りの志望理由書を見ながらうんうん悩んで、締切1時間前になんとか提出した。

こういう例はほかにもたくさんある。他人からも「真面目に考える人」「よく悩む人」「長考する人」と言われる。

この間大谷さんに「ぱーちゃんは助走をつけないよね」と言われた。「勢いをつけて跳んじゃう」みたいなことをしないという意味らしい。

スーパーマリオとかの古いアクションゲームで例えると、目の前の崖の先に上下に動く板があって、ちょうど板が崖の縁にぴったり重なるタイミングですーっと歩いていくという感じ。板が自分より上にある時にジャンプしてそれに乗ろうとしたり、崖を飛び越えて先に進んだりしない。
空のコップの中のピンポン球みたいだ、という話にもなった。コップの中に水が満たされていって「もうこれ以上入らない」というところで水が溢れて、水と一緒にピンポン球もコップからこぼれる。満ちるまではじっと待つことしかできない。あとどのくらい待てば満ちるのかも自分には分からない。水が満ちれば、すっと動くことができる。満ちる瞬間と行動する瞬間の境界は曖昧で、満ちたと気づいた時には恐らくもう行動している。後になって、ああ、まだ満ちていなかったんだなと思う。

そう考えると「決断が苦手」というよりも「こういう行動の仕方しかできない」ということのような気がする。こういう行動をした結果、周囲とうまくいかなかったり自分が疲れたりすることがあると「苦手」だと認識するのだと思う。冒頭に書いた昔の話も、自分の満ちるタイミングと締切が合っていなかったのだと思う。

結論が出ない状態に留まるのはそれなりに体力がいることで、そういう時はずっとその件がぼくの中のどこかにある。さっさと決めてしまえば楽かもと思いながら、それができない。ということはまだ満ちていない。

「今後こうしていこう」とかいう決意などなく、今日も留まることしかできない。

2015年5月26日火曜日

針が振り切れていて書けない。


文章が書けない。

最近考えている「無能」であるということについて書きたくなったけれど、なんだかよく分からなくなってしまって、3回くらい書き直した。もう4回目だ。疲れてきた。それでも何かを書こうとしているのは感じていて、その源泉を探り当てるのにとても苦労している。

この間東山の和室に大谷さんと一緒に二泊してきた。特に何をするでもなく、お腹が空いたらイオンやフレスコで食事を調達して、眠たくなったら寝て、目が覚めたら話をして、外の空気に当たりたくて河原を歩いて、銭湯に行って散歩して、夜中に酒を飲んだ。人と合流して話もした。

あの和室に長時間居るのは「修行みたいだ」と冗談半分で言っていたけれど実際にそれに近いものがある感じがしていて、あらゆるものの解像度が高くなってくる。散歩に出て「風景が変わること」が娯楽に思えてくる。飲み物を買うためにコンビニに行って「自分が何を飲みたいか」が分からないことが引っかかって、すごく選ぶのに時間がかかる。自分の発した言葉が空間にずーんと残る感じがある。

こうして書いていて、どうして書けないのかが分かったような気がする。和室から出てから、身に起こっていることの処理が追いついていない。物や予定や意味が極度に「無い」状態に居続けて、感度が上がっている。その状態のまま外界からの刺激だけが膨大に増えているので、キャッチしきれない。地震計の針が振り切れてしまっている。

前から、この和室は『ドラゴンボール』の「精神と時の部屋」みたいな感じがするなと思っていた。あそこは外界と時間の流れ方が違っていて、生涯で2日間しか入っていられないらしい。「精神と時の部屋」から出てきた悟空と悟飯を見たベジータが「あいつら、ごく自然にあの状態(スーパーサイヤ人)でいやがる…」と驚いた場面が印象的なんだけれど、あんな感じで、決して派手なことは起こらないけれど淡々と、平熱のまま戦えるようになる変化が起こっているような気がする。

ドラゴンボールは小さい頃すごく好きで、何かつながるものがある感じがして嬉しくて、書きたくなってしまった。

2015年5月20日水曜日

予定を入れないでおくという企み

ふらっと寄った河原がすごく気持ちよかったりする。

しばらくずっとブログが書けなかった。書く時間はあって、書こうかとも思ったけれど、なかなか書き始めることがなかった。今日なぜかまた書いている。

職場で「夏休みはどうするんですか?」と聞かれた。今勤めている職場は夏休みが長くて、8月に10日間まとまった休みが取れる。ぼくは「いやあ、何も決めていないです」と答えた。周りにはキャンプに行く人もいたし、「まだ決めてなくて」という人もいたけれど、皆何かしら予定を入れる雰囲気だった。

帰りの電車でふと、この長期休みに何一つ予定を入れずにいたらどうなるだろうと想像した。友だちからの誘いも、何かのイベントごとも、意思を持って確定させないでおく。本当にその日を迎えるまでに、まるまる何も予定が入っていなかったらすごい感じだ。もし実現できたら、行き先は決めずにリュックだけ背負って「10日後には帰る」とか家族に伝えて家を出てみたら面白そうだ。

そう言いつつ、あっさり予定を入れているかもしれない。先のことはわからない。

2015年5月13日水曜日

「意味の世界の外」に暮らす人たち



この間の日曜日、円坐に参加した。けれど直前まで「体が疲れているから家で寝てようか」「いや、自分が借りている東山の和室でやるなら行ったほうがよいのでは」といった具合に行くかどうか自体を迷っていた。その前日ゼミに参加して自分の中のモードが変わった感じがあって、その状態になるとすんなり「行こう」という風になった。おもしろい体験をしたな、と思っている。

 *円坐については、小林けんじさんのブログに詳しく書かれています。

「かけた労力分だけちゃんと帰ってくる」とか「この選択にはこういう効果や意味がある」とかいう考え方を、最近ぼくは「意味の世界の論理」と勝手に呼んでいる。もちろん世間のほとんどの物事はこの論理の上に乗っかって成立していて、日夜その論理によって物事が決まったり動いたり生み出されたりしている。円坐に行くかどうか迷っていた僕は「意味の世界の論理」に絡まっていた。

ぼくが日曜日に体験したのはこの論理の外側にあるもので、それが何かと言われると説明がつかないのだけれど、とにかく「意味の世界の外」だとは言える。「意味の世界の論理」から外れた時に駆動した何かがある。

ゼミで読んでいる『無縁・公界・楽』(網野善彦)は、日本中世の時代に息づいていた「無縁」の原理について書かれている本なのだけれど、網野善彦は「これでもか」というくらい判物や掟書といった書物を取り上げる。現代の感覚からすると掴みにくい「無縁」の世界を、現代の論理から逆転する形で描き出していく様子は本当に鮮やかで、こんな文章表現が可能なのかとひっくり返りそうになる。

今という時代は、江戸時代から続いてきた「普通の常識」が通用しなくなってきている「転換点」だと網野氏はいう。だとすれば、後の時代に生きる人たちは今の時代と全く違う常識で暮らしているのかもしれない。そして、今の僕たちの暮らしの「常識」は理解しがたいものとして映るのかもしれない。ちょうど僕たちが「無縁の原理」をすんなりと理解できず、網野義彦の視界を借りながら、どうにかこうにか読み解こうとしているように。

後の時代に生きる人は「意味の世界の外」に暮らしているんではなかろうかと空想している。根拠はないけれど。


2015年5月12日火曜日

雑記 5/12


今日は仕事が早く終わったので早く帰ってきた。

左肩がなぜか痛い。少しでも動かすと違和感があって、腕を回したり上げたりすると痛む。

どうやら台風が近づいてきているようで、文字通り雲行きが怪しい。自宅近くの駅に着くと空が不気味に赤くて、ああ、このことをブログに書こうと思いながら改札を抜ける。駅前でiPhoneを取り出して空にレンズを向けたところで、駅員に呼び止められる。どうやら定期券を取り忘れていたらしい。落ち着かない気分でシャッターを切る。

こういうとりとめもない日記のような文章を一体誰が面白がって読むのだろうという気分になるけれど、一度こうやって書いてみると書き始められるような気がしている。「昼食におにぎりを作って職場に持参できる」というのが自分の調子を測るバロメーターのような気がしていて、ブログも似ている。少なくとも、今、あてどなく書き連ねていられる。

ある企画のために、つげ義春『無能の人』を買い集めている。先日Amazonで7冊注文して、今日はブックオフで2冊買った。すでにAmazon注文分は3冊届いたので、今部屋には5冊の『無能の人』が積まれている。毎日淡々と『無能の人』が届き、じわじわと冊数を増して行く部屋を想像すると可笑しい。

2015年5月6日水曜日

呼吸をするように

ブログを1本書いてみると、本を手に取る気になった。
早川義夫『生きがいは愛しあうことだけ』を読む。

すーっと文章が入ってくる。
ああ、そうか。と思う。

呼吸をするのと同じだ。一度出しきるから次が吸えるのだ。
「これを言わなきゃいけない」「これを書かなきゃいけない」
そう思うから出てこないのだ。

外からやってきた質問に答えようとしているうちは無理だ。
そのまんま、できるだけそのままのものを出そうとしてみて、出してみて、
ようやく呼吸ができるのだ。

思い出せてよかった。


雑記

おととい、昼間から大学の友人と飲んだ。10人とかそういう規模の飲み会が最近どうも苦手だったけれど、話したい人と話せたという感じがしたのは良かった。話の中身のほとんどが仕事と結婚と出産だった。梅田の茶屋町近辺だけで4件もはしごしてしまい、千鳥足で帰った。

昨日は祖母と叔母姉妹の家を訪ねた。うちは近しい親戚がほとんど大阪市内に住んでおり、「田舎に帰る」という言葉を使わない。以前祖父母が住んでいたのは繁華街の端にある古い一軒家だった。昔電器店をやっていた名残か、古いスピーカーや木製の棚があちこちに置いてあり、家に入るとどこか時間を遡るような感覚になることができた。数年前に祖父が亡くなってからは、叔母姉妹が祖母と大阪市内のマンションに同居している。建物も設備もぼくの自宅より新しいので、「遡る」感じはない。オートロックの玄関と奇麗で大きな洗面台にいつも戸惑う。祖父の仏壇に手を合わせてきた。お鈴の音は昔と変わらず、安心した。

今日は連日の食べ飲み過ぎで体調がおかしなことになっている。昼にうどんを食べたきり、寝たり起きたりしている。キリンジの『エイリアンズ』をずっと聴いている。同じ曲を短い期間に何度も聴き続けるというのはこれまでにもあって、そういう時はたいてい何かがひっかかっている。それが何かというのはよく分からない。いや、分かってはいるけれどまだ捉えきれていない。




憧れや執着というのはどこからやってくるのだろう。ゴールデンウィークに入る前はブログを毎日書き、本を読もうと思っていた。結局そのほとんどができなかった。できないならできないでいいと思っているけれど、できなかったという感じが残る。

「今しかできないこと」をする、という言い回しが横たわっている。今できていて、先々になるとできなくなること、という意味だろうか。でも未来そのものが分からないので、やっぱり分からない。ただ「今できないこと」なら分かる気がする。「しか」と言われたとたんに霞んでいく。

2015年5月2日土曜日

今日も天気がいい。


なんというか、適当な写真がなかった。

朝ご飯を食べようとキッチンに向かって、「今日は何食べたいかな」と自分に聞いているときは調子がいい。出勤する日はそういうモードが働きにくい。卵かけごはんか、目玉焼きサンドか、フレンチトーストか、普通のトーストか。今日は「食パンに切り込みを入れてパルミジャーノを挟んで焼く」というのを思いついた。美味しかった。その時やりたいと思ったことをその場でぱっとできるのがいい。

新しい仕事を始めてから、朝目覚めるかどうかの瀬戸際の時間に、仕事の情景がわーっと湧いてきて頭を通過していくのを何度も体験している。特に休みの日は顕著で、うとうとしながら仕事のことが浮かんでは消えていく。

「休みの日だから何か予定を入れないと」みたいなことが最近なくなった。回りくどいけれど、「何もない」からこそ起こることが必ずあると思えるようになったからだと思う。ゴールデンウィークも特に予定がなかったのだけれど、昨日から少しずつ予定が入り始めていて、そわそわする。「むこう120時間近くにわたって予定がない」ということに価値がある感じがするので、予定が入るとどんどんその時間の塊が分断されていく。

2015年4月27日月曜日

お守りを納めに行ってきた。

大学受験のときにもらったものが多い。
あとは初詣のとき。

去年、部屋の物を大幅に整理したときにお守りがいくつか出てきた。

「捨てるのはさすがにまずい気がする」と思って処分の方法を調べ、
神社に返しにいくと決めて2ヶ月。

「出かけたついでに神社に寄る」という感じにも、
「わざわざお守りを納めに出かける」という感じにもならず、
なかなか実現していなかった。

先月、思い立って近所の小さな神社に行ってみたものの
納める場所も神主さんらしき人も見当たらず、結局断念。

今日、お昼ごはんを食べ終わって外に出たくなったので
近所のわりと大きめの神社、長岡天満宮に行ってみることにした。

社務所に行けばいいんだよな。すぐに分かるかな。
「古いお守りを持ってきたんですが…」で伝わるのかな。
と、どきどきしながら境内を歩いていたら看板が現れた。

案外あっさり見つかった。

この中に納めるらしい。

なんだかあっさりしすぎていて戸惑ったので、
わざわざ社務所に行って巫女さんに確認した。

「あの、古くなったお守りはあそこに持っていけばいいんでしょうか」
「はい、あの中に納めていただければ大丈夫です」

2ヶ月くらいずっとひっかかっていた割には、
すんなりと納め終わった。

* * *

到着してから思い出したのだけれど、
この時期の長岡天満宮はキリシマツツジがちょうど見頃だった。

普段は割とがらんとしている境内や庭園に観光客がたくさんいて、
外国から来ているであろう人達も多かった。

普段見慣れている場所が時期によって様変わりするのは、
なんだか面白い。
近所のはずなのに、一気に知らない土地に来たような感じがする。

庭園の写真を撮る外国人に囲まれたので、
ぼくも真似して同じアングルで撮ってみた。
平日に休みを取って一人旅している気分。

ビールが飲みたくなって「300円までなら出すぞ」と思って屋台へ向かう。
しかし400円だったので断念した。
せめて炭酸が飲みたかったので、自販機のセブンアップのボタンを押した。

観光客に混じって、観光客の気分で、アルミ缶片手に歩く。

前に友人が「非日常であれば、それは旅だ」と言っていた。
本当にそうだなという気がする。

奇麗な景色を見るとか話題の場所に行くとかはそんなに重要ではなくて、
この非日常な感じを味わうことができたらそれでいい。
自宅からせいぜい3km圏内の旅。









2015年4月26日日曜日

「時間があると余計なことを考えてしまう」について。

考えることは疲れるけど楽しい。

「時間があると余計なことを考えてしまう」という言い回しがある。

「時間があると」と仮定しているので、
これを言う人は時間がない状態、おそらく忙しいのだろう。
日々何かに追われていて余裕がないイメージが浮かぶ。

「余計なこと」というくらいなので、
それについて考える必要性は高くないのだろう。
考えないからといって何か問題が起こるわけでもなく、なんとかなっている。

「考えてしまう」ということは、
自分の意思とは無関係に「考え」が起こっているのだろう。
考えなくてもいいはずなのに、できれば見ないでおきたいのに、
ふとした時に背後に気配を感じる。

こう考えると
「時間があると余計なことを考えてしまう」の続きは
「それくらいなら、時間はないが余計なことを考えずに済むほうがマシだ」だろう。

時間をなくすことによってでしか、「考える」ことに対抗できない。
逆に言えば、時間さえあれば、「考える」ことができる。

ゼミで読んだミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出す。


2015年4月19日日曜日

ジャケット、復活。

タイトなサイズなので、
どうしても背中から脇が突っ張る。

脇の部分が解れていたジャケット。

今朝、修繕にもう一度トライしてみたところ、
案外うまくいって着られるレベルになった。

裏地の部分に縫い糸が若干見えてしまうけど、
人に見せるような箇所ではないので普段着る分には問題ない。

服について昨日色々と考えた結果わかったのは、
ジャケットは「戦闘服」だということだ。
「社会人としての身だしなみ」という視点からの攻撃から
上半身は少なくとも守ることができる。

そういった類いの攻撃を受けない場所や環境では、着る必要がない。
というか、取り立てて着たいと思わない。
なので、職場のロッカーに置きっぱなしにしておくことにした。
必要な場所で、必要なタイミングで着れればそれでいい。

そんな風に「ジャケットの位置」が自分の中で固まると、
不思議ともう一度修繕してみようという気になったのでした。

2015年4月18日土曜日

「服を買う」に至るまでの記録

スラックスも気に入ったものを見つけたので結局購入した。
けれど、変な買い物はせずに済んだ。

仕事環境が変わって、服が必要になった。
家を出て数分、コンビニの前で立ち止まる。

あれ。そもそも僕は何を買いたいんだっけ。
わざわざ大阪まで行くなら、カーディガンを買うついでに、
シャツやズボンも良いのがあれば買おうと思っている。
でもなんか変だ。もやもやする。

駅に向かう道を引き返してみる。
ええと、そうだ、最初はジャケットを買おうと思っていた。
でもジャケットはあまり好きでないことに気がついたんだった。
仕事着としては妥当だけど、私服としては好んで着ない。

* * *

住宅街を歩く。

持っているジャケットのうち1着は脇の部分が解れていて、
今朝直そうとしてみたけどうまくいかず、嫌になってやめた。
別の1着をこの数日着続けていて、でも自分で洗濯できない。
いちいちクリーニングに持って行くのも面倒だ。

そうだ、だからジャケット代わりにシャツの上に羽織れるもの、
かつ自分が着たくて、仕事にも着ていけるもの。
だからカーディガンが必要なんだった。そうそう。
よかった、出発できる。

でも待てよ。
なんか「ついでに」ズボンやシャツを買おうかと思っている。
これは何だ。

* * *

もう一度家の前に戻ってくる。

この2週間、職場には2本のズボンを履き回して行った。
今あるものでなんとかなりそうで、
無理して買わなくてもOKだと思ったんだった。

ただ、夏になると話は別だ。
去年はほとんど短パンで過ごしたから何とかなったけど、
今年はそうはいかない。
そうか、「ゆくゆく」要るかもしれないだけで
「今」手に入れたいわけではないのか。

* * *

家を通り過ぎてまた住宅街を歩く。

じゃあシャツはなんだ。どうして浮かんだんだ。
シャツ、数は十分ある。
ただしそのうち半分はチェックのシャツだ。
チェックのシャツはフォーマル度が下がる。
けれどシャツの質感に左右される感じもあるので、
持っているもので試してみる余地はありそうだ。

* * *
 
もう一度、コンビニを通り過ぎる。

それに無地のシャツもある。
でもそのうち半分はサイズが気に入っていない。
セーターやジャケットの下に着る分には重宝するけれど、
シャツ単体で着たい感じが全然しないんだった。
もう少し暑くなって世間が「クールビズ」と言い出した時期には
「着ていきたい」と思えるシャツがほしい。
でも、今のところなくても問題はない。
そうか、これも「今」の話じゃないのか。

* * *

おおそうか。
今日は「カーディガンを手に入れに行く」のか。
ずいぶん楽しみになってきた。

わくわくしながら、駅に向かうガード下をくぐる。

2015年4月14日火曜日

「あてどない日常」に留まるには(後半)

あてどない散歩の最中に撮った写真。
(前編)の続き。

確固たるストーリーが崩壊した中でどう生きていけばいいか。
という話は、社会学などの方面では以前から議論されているみたいだ。

僕はその議論にはあまり詳しくない。

けれど最近ヒントのようなものは掴みつつあって、それは
「ここに窪みがあるから安心して足をかけられる」とか
「水の流れが急で不安だから左側からまわる」とか
「疲れてきてこのまま進むのは難しいから一旦岩場で休憩する」とか
そういう、ごく細かいレベルの具体的な確かさを手だてに
進んでいくことではないかと思う。

「何分後にはせめてあの岩場までは到達していたほうが云々」
「この靴を履いたほうがより効率的に云々」
「そもそも沢登りをする意義とは云々」
などと言う人が世の中にはたくさんいる。

こうした声にすぐに光明を見いだしたくなるので、
その声に全面的に倒れ込まないでいられるかが肝ではないか。
このあたりは以前書いた「僕の中の他人が言う」という言葉が役に立つ感じがする。

現代はあらゆることが相対化される「あてどない」時代だとすれば、
この「あてどなさ」を逆手に取った上で自分の足場を確保できたら、
「あてどない」ことに留まっていられるのではないか。

そして、「逆手に取る」ために必要なのは
恐らく時間的・空間的な空白や「無い」状態なのだと思う。
このあたりはまだうまく言語化できないので、
今後も引き続き確かめていきたいことでもある。

「無い」については、それぞれに微妙に力点や使い方が異なるものの
大谷さん・澪さんもブログに書いている。

 ■まるネコ堂ブログ ラベル:「無いの世界」
 ■山根澪のブログ「「ない」への道は、「ある」ことへの意識から。」

僕がこの1年くらいで関係性を深めた人たちは
仕事や、人との関わりや、物との関係など、
自分なりに暮らしの捉え直しを続けている人たちだと思う。

こうした中にいる人たちは、
表面に見えている「働き方」や「暮らし」は
「ほのぼの」「まったり」しているように映るかもしれない。
ドラマ『すいか』の登場人物もそう見える。
2003年当時はそう表現するしかなかったのだろうと思う。

けれど恐らく当人はそれぞれ、
ストーリーの強烈な引力を感じつつ
「あてどなさ」の中に足場を見つけて生きているはずで、
それが確固たるストーリーに該当しないからといって
「ほのぼの」「まったり」で形容されてはたまらん、
と言いたくなってしまったのだろうと思う。

※当初「「あてどない日常」を越えるには」とタイトルをつけていましたが、
 「留まる」方がしっくりくると思い変更しました。

2015年4月13日月曜日

「あてどない日常」に留まるには(前半)



ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ソラニン』を思い出した。
「例えば ゆるい幸せが だらっと続いたとする」昔よく聴いた。懐かしい。
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以前書いた記事
「ドラマ『すいか』を観た。地味な大事件を必死に生きる日常。」
の続きのような、続きでないような。
「日常をまったりと生きる」「ほのぼの」ドラマだというレビューを
たまたまwebで見つけたけれど、ぜんぜん納得いかない。
と書いたけれど、参照した記事が書かれたのは2003年9月。
 高度経済成長期も過ぎ、1999年で世界は終わらなかった。
当時の言い回しとしては、自然だったのかもしれない。

けれど、やっぱり「今」この作品を観て
「まったり」「ほのぼの」したドラマだとは
とても言い表せないような気がしている。

* * *

一般的には「東日本大震災以降、『終わりなき日常』が終わった」
みたいな話で語られそうな話でもある。
いつまでも続くと思っていた日常が、
突然断ち切られるかもしれないという状況。

もちろんそれもあるけれど、
僕にとってはやっぱり「仕事をやめた」ということが、
この一件に関してとてつもない影響力を放っている。

それまで信じていたものや頼りにしていたものが、
ある日を境に目の前からなくなってしまうような状況。

その状況下で、ストーリーに生きようとするのはとてもしんどい。

「今までこうだった『から』こうする」
「今までこうだった『のに』こうできない」とか。

このあたりの考え方は、大谷さんのブログから影響を受けている。

 ■まるネコ堂ブログ
 「【105】タイのインスタントラーメンを食べる。オーガニックとジャンクが同居するシーン。
 「【017】シーン先行型の暮らし

長くなったので、後半は後日。

2015年4月9日木曜日

ドラマ『すいか』を観た。地味な大事件を必死に生きる日常。

放送は2003年。
ちょっと時代を感じるwebサイトでダウンロードした壁紙。

TVドラマ『すいか』を全話観た。

僕は全く作品のことを知らなかったけれど、
友人に勧められて観てみたらすごく良かった。
これについて何か書きたいと思いながら、
ブログは下書きのままになっていた。

* * *

今日、帰宅して居間に行くとテレビがついていて、
「過去の凶悪犯罪捜査の再現ミニドラマ」みたいなのがやっていた。
画面の中では、薄暗い取り調べ室で年配の刑事が若い女性を問いつめている。
僕は冷えた身体をストーブで温める間にこれをぼーっと眺めていて、
ああなるほど、と思った。

バラエティー番組内の再現ドラマと連ドラを比べるのもどうかと思うけど、
この再現ドラマは「ストーリーに持って行かれるつまらなさ」の極みだ。

ごく短時間で事件の概要を伝えて、かつお話として成立させないといけないので、
「犯人が事件を起こし、逮捕されるまでの流れ」を中心に描くことになる。
その軸を中心に全ての登場人物が現れるので、
出てくる刑事も、犯罪者も、どこか輪郭がぼやけている。

この手のストーリーはもう飽和している感じがあって、
僕はあんまり楽しめない。

* * *

『すいか』にも「事件」的な出来事は起こる。
馬場ちゃん(小泉今日子)は勤めている信用金庫から3億円を横領し、
絆さん(ともさかりえ)は通り魔に遭遇して怪我を負う。

でもこういうのは本当に重要な「事件」としては描かれておらず、
基子(小林聡美)が中学生時代から続けていた100円玉貯金を使い切ったり、
絆さんがメロンを食べている父親の背中を目撃したり、
舞台になっている下宿「ハピネス三茶」を教授(浅丘ルリ子)が出て行ったり、
そういう一見大したことのない出来事が、よっぽど重要な事件だったりする。

そして、なぜそうした出来事が重要な事件たりえるのかを、
全10回を通して丁寧に描いている感じがする。
『すいか』はそういう作品だと思う。

「日常をまったりと生きる」「ほのぼの」ドラマだというレビューを
たまたまwebで見つけたけれど、ぜんぜん納得いかない。
登場人物は、それぞれにとっての地味な大事件を必死に生きている。

そういう住人たちが「ハピネス三茶」という場に出入りする。
中心軸になるような大きいストーリーはない。
すると一人ひとりの輪郭がくっきりと見えてくる。

この過程がとってもおもしろい。
いい作品を教えてもらったなあ。




2015年4月8日水曜日

死体に触れなかった。(続き)

大阪の四天王寺から西に歩いた時の写真。
『大阪アースダイバー』の舞台を歩いた。
どことなく、死の香りのする散歩だった。
本文とは無関係。

以前の記事「死体に触れなかった。」のつづき。

ある雨の日、駅に向かう途中。

僕の十メートルほど前を歩いていた女性が、
何かを避けるように右に逸れた。
正面に黒っぽい塊が見える。

近づくにつれ、イタチらしき動物の死体であるとわかる。

徐々に死体との距離が縮まる中、
僕は昨日、大谷さんが小鳥の死体を素手で取り上げていたのを思い出す。

死体の前で立ち止まる。

このまま置いておいたら、誰かが処理するのだろうか。
いや、誰かが処理しないと放置されたままではないか。
こういう時、役所の人が呼ばれるのだろうか。

右手には、雑草の生えた土の小道がかろうじてある。
自分で動かしてみようか。

これらが一瞬で頭の中を駆け巡り、
次の瞬間には、死体を横目に駅に向かって足を進めていた。

どうしてやってみようと思ったのか、
どうしてやめたのか、
そのあたりを書こうとしたけれど難しい。

義務感や、後ろめたさや、
いざ「触る」となったときの躊躇や、色々なものが混じっている気がする。
大谷さんのように「触れたい」という感覚ではないようにも思う。

もう何年も前に叔父が亡くなった時のことを思い出した。
生前ほとんど関わりがないまま、亡くなってしまった叔父。

葬儀の前夜、叔父の遺体と同じ部屋に親族が集まり、
特に何を話すでもなく過ごした時間が、とても豊かだった気がした。
人が亡くなっているのになにを、と言われそうだけど
「豊か」というほかない感覚だった。

「ああ、人は死ぬのか」と思った。

自分の力が到底及ばない、
どうがんばっても覆しようがない、
確固たるものに触れている感じがした。

遺体に触れたかどうかは覚えていない。
けれどなぜだろう、思い出した。

2015年4月7日火曜日

選んだリュックを背負う嬉しさ。

革と帆布が、いい感じ。

carapaceのリュックを買った。

本体の色は「カラシ」。
ポケットの色は「モカベージュ」。
写真では見えない内ポケットは「グレー」。

さんざん迷って、この色の組み合わせに決めて注文したのが2月頭。
3月末に完成したので、毎日背負って歩いている。

最近読み終わった本『ズームイン、服!』(坂口恭平)に
「服も身体の延長である」というニュアンスの一文があって、
なんだか分かるなあ、という気がしている。

4月から始まった、新しい職場での仕事。
最初の2日はスーツで出勤したけれど、どうにも慣れなかった。
通常はカジュアルな服装でも大丈夫と聞いていたので、
3日目からは私服の仕事着に切り替えた。

別に新しい服に袖を通すわけでもないのに、
前日は少しわくわくしながら眠った。

このリュックを背負って歩ける嬉しさも似ていて、
自分が自分でいられる、という感じがする。

このリュックを作る人たちと出会った自分。
このリュックを買うと決めた自分。
このリュックを使っていきたい、と思っている自分。

そういう自分を背負って、一緒に、
毎日歩ける気がしてくるのが嬉しい。


2015年4月3日金曜日

死体に触れなかった。

日も場所も違うけど、こんな感じのシチュエーション。
僕のほうが少し前を歩いていたと思う。

この間、駅に向かう道を歩いていたらイタチか何かが息絶えて倒れていた。
その前日、大谷さんが道で息絶えていた小鳥を拾って土のあるところに移動させたのを見ていて、ぼくもやってみようと思ったけれど、結局できなかった。

という話をしたら、そのことを大谷さんがブログに書いていた。
(まるネコ堂ブログ「【113】死体に触れたいと思うわけ。」)
「ぱーちゃんはなぜ自分も死体に触れようとしたのか」と書かれているのを読んで、「そういえば何でだろうな」と考えていたら書きたくなった。

あの日、つまり大谷さんが小鳥を拾った日、どう思っただろう。

ぼくの視界正面に入った路上の小鳥は、状況からして死んでいるだろうとわかった。少し気分と視線が沈む感じがあった。ぼくは視線を進行方向に戻しながら、後ろめたく思う気持ちで、もう一度小鳥のほうに視線を送った。

その時、ぼくの視界の左手隅で大谷さんが無言で立ち止まる。素手で小鳥を手に取り、すぐ左脇の神社の敷地に移動させる。

ためらうでもなく、「かわいそうに」と言うでもなく、ことさら悲しむでもなく、ぼくには大谷さんが「当然のように」一連の所作をおこなっているように見えたのが印象的だった。

通り過ぎるという行為を、「当然のように」、ほぼ自動的に選択している自分も同時に浮き彫りになった感じがあった。

眠くなってきたので、つづきをまた書きます。

2015年3月31日火曜日

「僕と仕事」(14)僕は「仕事」を辞めてはいなかった。

およそ1年前の、北海道の海。


【前回の続き】

そういう意味では、たぶん僕は「仕事」を辞めてはいなかったと思う。

勤めていた組織は退職し、
担当業務の中には全うできなかったものもあり、
収入も一時途絶えた。

ハローワークでは「求職者」、
キャリアコンサルタントからは「転職活動中」と呼ばれ、
一時期は友人に「人生の夏休み中」と説明した。

これらだけ見たら、ぼくは「仕事を辞めた人」だ。
僕もそう思う。

けれど、前の仕事を辞めたこと、
ご縁のあった仕事を辞退したこと、
そういう過程も含めて、僕にとっては「仕事」だった。
自分を全うして生きるために、必要な過程だと思える。

先日開いた場で、澪さんから
「ゼミも4月からの仕事も、やろうとしていること同じではないか」
という意味のことを言われた。
まさにそうだと思う。

「仕事」という言葉には、お金を稼ぐとか、
社会の構成員として認められるとか、やりがいを求めるとか、
人の役に立つとか、色々な要素が投影されている。


以前は、「仕事」にまつわるたくさんの要素を、
勤め先で担っている仕事に全てを投影していたような気がする。
けれど、そういうものを一旦横において
純粋に「仕事」というものだけを抽出してみると
違った景色が見えてきた。

これからも僕の「仕事」は続きます。